|
藤田 和日郎(ふじた かずひろ、1964年5月24日〔 - )は、日本の漫画家。北海道旭川市出身〔。本名:藤田和宏。 北海道旭川東高等学校〔携帯用サイト「漫画家藤田和日郎 」編集部コラム「第16回」の中で、担当編集者が藤田の母校が「まんが甲子園・第17回大会本選出場校 」であり、その「まんが研究会」を創設したのは藤田たちの代であると紹介している。〕、日本大学法学部新聞学科卒業〔中野晴行(取材・文)「マンガ家スペシャルインタビュー藤田和日郎」『ダ・ヴィンチ 77号』 メディアファクトリー、2000年9月、p.108-109。〕。現仕事場は東京都豊島区〔『朝日新聞』2008年3月8日朝刊。〕。血液型はA型〔。 1988年(昭和63年)に「連絡船奇譚」が『週刊少年サンデー』の増刊号に掲載されてデビューし、1990年(平成2年)より『週刊少年サンデー』本誌で開始した「うしおととら」で連載デビュー。代表作に『うしおととら』・『からくりサーカス』・『月光条例』・『邪眼は月輪に飛ぶ』など〔。主に『週刊少年サンデー』で活躍。 == 来歴 == もともと話を考えるのが好きであったが、高橋留美子の短編「闇をかけるまなざし」〔『週刊少年サンデー』1982年8月増刊号初出、『【保存版】るーみっくわーるど 高橋留美子傑作短編集 2』(小学館、1995年3月15日初版発行、ISBN 4-09-121857-1)に収録。〕を読んだことをきっかけとして漫画家を目指す〔〔『ジャンプスクエア直撃インタビュー完全版』第2回。〕。 絵の描き方について試行錯誤を繰り返していた高校時代に、アニメ映画『クラッシャージョウ』の舞台挨拶のため、地元旭川に訪れた安彦良和へ質問した思い出を持つ〔「ペンの魔術師たち1 想像力は時を駆ける」『北海道新聞』1997年10月27日夕刊。〕。そのイベントで安彦が「目線が決まると体の向きが決まる」と発言したのを聞き「人物はまず目から描く」ことに決めたという。この描き方はプロになってからも続けられている〔藤田和日郎インタビュー」『ぱふ 1997年2月号』 雑草社、1997年2月、p.40-43。〕。大学では漫画・イラストなどの修行の他、形意拳〔藤田和日郎,荒川弘,「少年マンガの教理と実践 藤田和日郎が 『鋼の錬金術師』 を読む」, ユリイカ, 2010.参照。〕の修行歴があり短編集の作品にも反映されている。 あさりよしとお〔『からくりサーカスのすべて』252頁。〕のアシスタントを経て、1988年(昭和63年)に第22回新人コミック大賞に入選した「連絡船奇譚」が『週刊少年サンデー』の増刊号に掲載されてデビューを果たす。そして1989年(平成元年)に「うしおととら」で第2回少年サンデーコミックグランプリ〔少年サンデーが主催していた新人賞。受賞作がそのまま連載となる事を謳っていた。〕に入賞し、翌1990年(平成2年)より少年サンデー誌上で連載を開始する。同作は6年以上に渡り連載され、OVA化などもされる人気作品となった〔。 1997年(平成9年)より少年サンデーで「からくりサーカス」を連載開始し、およそ9年に渡り連載が続けられる長編となる。 2006年(平成18年)の『からくりサーカス』終了後は少年サンデーを離れ、『ビッグコミックスピリッツ』・『モーニング』と一時的に青年誌へと活動の場を移すが、2008年(平成20年)には再び少年サンデーに戻り2014年(平成26年)まで「月光条例」を連載していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田和日郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|