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藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年(明治6年)1月5日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、日本の実業家。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員を務めた。 == 人物・来歴 == 青森県〔コトバンクサイト内の記事「藤田謙一 」の記述を参照。〕弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる〔企業家人物辞典サイト内の記事「藤田謙一 」の項の記述を参照。〕。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る〔。 東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し〔、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する〔〔。法学博士・熊野敬三の書生になる〔。同学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する〔。 1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる〔。岩谷の個人商店だった岩谷商会を会社組織化し、専務理事となった。1904年(明治37年)の専売制実施の際、政府による同社の買収金額を莫大なものとした。 1909年(明治42年)5月に東洋製塩に入社、取締役となり再建に尽力、翌1910年(明治43年)には同社を台湾塩業と改称し、専務取締役に就任し〔、鈴木商店顧問となった。1912年(大正元年)9月10日、映画会社4社統合による日活設立の音頭をとり、のちに同社の社長となるほか〔、堤康次郎に招かれ千ヶ滝遊園地(1917年)、箱根土地(1920年、後のコクド、現存せず)の社長に就任、東京毛織専務取締役、そのほか、多くの会社の代表や取締役を歴任、育英事業を手がけるべく、東京に藤田育英社を創立する〔。 1926年(大正15年)、53歳のとき、藤山雷太、指田義雄に次いで東京商業会議所の第3代会頭となる〔。1928年(昭和3年)、55歳のとき、日本商工会議所の初代会頭に就任〔、同年4月4日、勅撰を受け貴族院議員となる。また、国際労働会議に資本家代表として出席している〔。同年、八千代生命保険の小原達明が帝国火災保険の社長を退陣、藤田がかわって社長に就任している〔『大阪朝日新聞』掲載の1928年11月3日付の記事「帝国火災紛糾擾 三万株問題 」(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)の記述を参照。〕。 1929年(昭和4年)11月6日、売勲事件で賞勲局総裁天岡直嘉に5,000円を贈ったとして召喚収容されるが、即日釈放される。1935年(昭和10年)9月28日、大審院で上告が棄却され、藤田に懲役3月(執行猶予3年)の判決が確定する。同年10月4日、貴族院を除名〔「議員除名」『官報』1935年10月5日 (国立国会図書館デジタル化資料)〕となり、政界を引退する。 1946年(昭和21年)3月12日に死去〔。満73歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田謙一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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