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藤野 秀夫(ふじの ひでお、1878年5月16日 - 1956年2月11日〔藤野秀夫 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年9月21日閲覧〕)は、日本の俳優。本名は島田 卯平(しまだ うへい)〔。 新派俳優から映画俳優となり、全盛期の日活向島撮影所では温厚で誰からも愛される正統派の二枚目俳優〔として活躍し、日活新派の全盛期を築いた。後に松竹蒲田撮影所専属となってからは脇役・老け役で出演し、俳優陣の長老的存在〔となった。亡くなるまでに300本近い作品に出演した〔藤野秀夫 、日本映画データベース、2015年9月21日閲覧〕。 == 来歴・人物 == 1878年(明治11年)5月16日、東京市京橋区出雲町(現在の東京都中央区銀座8丁目)に生まれる〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.505〕〔泉沢悟朗『裸にした映画女優』、日本映画研究会、1925年、p.55〕。少年時代から芝居狂で〔、旧制中学中退後の1894年(明治27年)、横浜蔦座に出演中の新派の山口定雄一座に入り、初舞台を踏む〔〔『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年、p.108〕。1905年(明治38年)から喜多村緑郎の門下となって各地を巡演し、やがて東京座の舞台で幹部となる〔〔『日本映画俳優名鑑 昭和五年版 第10巻』、映画世界社、1929年p.112〕。 1915年(大正4年)9月、浅草御国座で井上正夫一座による連鎖劇に出演。これが映画界入りの最初で、同年公開の『搭上の秘密』(天活製作)が初出演作となった〔〔〔『日本映画年鑑 大正13・4年度』、アサヒグラフ編輯局(編)、東京朝日新聞発行所、1925年、p.157〕。翌1916年(大正5年)1月、秋月桂太郎の死去によって、師の喜多村の推薦で大阪・浪花座に代役として出演した後、福井茂兵衛・小織桂一郎らの成美団に加わって九州地方を巡演する〔〔。 1917年(大正6年)8月、桝本清の紹介で日活向島撮影所に入社〔。同年公開の『白萩』で主演デビューし、二枚目の立ち役として多くの映画に出演。日活向島のトップスターとして小口忠監督の『七色指環』『不如帰』、田中栄三監督の『桜の園』等の新派映画に主演し、田中監督の革新映画『生ける屍』にも出演する。1922年(大正11年)11月25日、田中監督の『京屋襟店』の完成試写後、衣笠貞之助、横山運平、新井淳、島田嘉七ら12名の所属俳優と共に日活を退社して、国際活映に移籍するが、1923年(大正12年)5月1日には松竹蒲田撮影所に入社する〔。野村芳亭監督の『萩寺心中』、島津保次郎監督の『蕎麦屋の娘』などに主演、川田芳子や水谷八重子らの相手役を演じて好評を得る。1925年(大正14年)以降は年齢のせいか主演作は少なくなるが〔、一流監督の作品に起用され、大船撮影所移転後も脇役・老け役で活躍を続けた。1929年(昭和4年)1月8日に井上正夫、岩田祐吉、栗島すみ子、川田芳子、柳さく子とともに大幹部に昇格する〔『松竹七十年史』、松竹、1964年、p.263〕。 1956年(昭和31年)2月11日、死去。77歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤野秀夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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