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藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である。 == 概要 == 最初の藩札は、通説では越前福井藩が寛文元年(1661年)に発行した銀札〔朝尾直弘、辻 達也 編『日本の近世3』中央公論社、1991年、82頁〕であると言われているが、文献上では寛永7年(1630年)に発行された備後福山藩の銀札が最初である。もっともそれ以前に伊勢や大和では私札の発行が見られ、現存する日本最古の紙幣ともいわれる山田羽書(1610年)もこれに属する。そもそも貨幣鋳造技術が未発達な当時、土木工事などの賃金の支払いに必要となった大量な小額貨幣の代用と考えられている私札が、藩札の発行へとつながったと見られる。寛永11年(1634年)には自治都市であった今井町において、幕府から許されて藩札と同じ価値のある独自の紙幣として発行された銀札「今井札」が74年を通じて広く近郷でも用いられたが、兌換の円滑さから国中でも信用性が高かった。その後、特に銀遣い経済地域である西国の諸大名を中心として、多くの藩が藩札を発行した。 藩札発行の目的は、自領内の貨幣不足を補い、通貨量の調整機能を担わせることであった。それには十分な正貨準備が不可欠であったが、実際には、藩札発行で得られる実通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消を試みる場合がしばしばあった。藩札の流通は、藩が独自の流通規則を定め、藩札以外の貨幣の流通を禁じた藩もあったが、藩札と幕府貨幣の両方の流通を認めた藩も多かった。 なお藩札は、藩を改易された際には紙くずと成るリスクを有し、また藩の財政状況が悪化しただけで信用力の低下につながる。そのため藩札の運用が行き詰まった場合には、藩札の兌換を巡る取り付け騒ぎや一揆、打ちこわしも発生した。表向きには金銀などの兌換保証を前提としていた藩札だったが、実際に、それだけの正貨を用意できた藩は少なかった。 藩札普及初期には、藩が自ら藩札会所などを設けて藩札の発行していたが、やがて領地内外の富裕な商人が藩札の札元となり発行を行い、その商人の信用によって藩札が流通した側面もあった。ただし、実際の版型を彫る技術者を各藩内で得るのは困難なため、大坂を中心とする京阪地方で各藩の注文を受け、銅版の場合は藩の注文に応じてその地に出張して製版に当たった。印刷は各藩内で藩の者によって刷られ、銅版の場合は製造技術者が共に行った。 畿内近国においては、幕府領、諸藩領、旗本領などがモザイク状に入り組んでいたために、他領地との取引が諸領の経済活動に占める割合が非常に大きく、また江戸時代後期以降は幕府の意図的な銀単位通貨流通量抑制政策のために手形や藩札による取引も盛んであったため、発行元である藩の思惑に反して藩領を超えた比較的広い範囲にまで藩札が流通していた場合も少なくない。 また近隣の藩で藩札が発行された場合、領内の良貨(幕府貨幣)が悪貨(近隣の藩が発行した信用の裏付けの弱い紙幣)に取って代わられる、言い換えれば良貨を近隣他領に吸い上げられることは自領の経済活動に悪影響が及ぶため、それを防ぐための自衛策として、小藩や旗本領、関東諸藩の飛び地領などでも独自の紙幣を発行せざるを得なくなる場合も少なくなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藩札」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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