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蘇 炳文(そ へいぶん、1892年10月22日‐1975年5月22日)は、中華民国の軍人。 字は翰章、号は鉄庵。北京政府、奉天派に属した。保定軍校第一期卒業。最終階級は二級上将。「ホロンバイル事件」の首謀者として知られる。 == 経歴 == 遼寧省新民県奉天市中古城子村出身。1899年1月、私塾に入りそこで学を修める。1910年1月、北京清河鎮の陸軍第一中学に入学。辛亥革命後の1912年9月、保定軍校が設立され、歩兵科第一期生として入学。14年10月卒業後、袁世凱の設立した「模範団」に入隊。16年1月、中尉に昇進。第二期第一営一連の排長となり、翌年連長に就任。1917年7月1日から12日間張勲復辟では、紫禁城内において功を挙げた。1918年1月、上尉に昇進し、旅一団二営の副営長となる。少校に昇進後の1918年、中国の第一次世界大戦におけるドイツへの宣戦布告を受け、九師第三十六団第一営営長としてソビエト領沿海州に赴く。7月、中校に昇進。第三十三団副団長となる。1923年、上校に昇進。第三旅参謀長となる。翌秋の第二次直奉戦争では中立を保った。1928年、万福麟に従って東北軍に入り、東北辺方軍駐江副司令長官公署参謀長兼黒龍江国防警備長、。黒龍江省政府委員。1930年より第十五旅旅長兼呼倫貝爾警備司令、中東路哈満線護路軍司令、黒龍江省防軍第二旅長等の職を歴任する。 1932年2月28日、満州国が成立。黒龍江省市政警備処長となったが、人事問題に対する不満から、9月27日、『東北民衆救国軍』を名のり、満州里で挙兵。領事をはじめ特務機関長、国境警察署長や民間人の在留邦人数百名を人質とし、10月1日、海拉爾に進攻。10月末から11月にかけて北満鉄道西部方面一帯を占領した。ホロンバイル独立を宣言、日本政府に対し正式に宣戦を布告した。これに対し日本軍は歩兵第25連隊第2大隊、鉄道第一連隊、飛行第12大隊などの関東軍の混成師団や満州国軍興安南警備軍を派遣。救国軍側はこれらの猛攻を受けて次第に戦力を失い、12月6日午後1時30分、ついに本拠地の満洲里が陥落。蘇はソ連のトムスクへと亡命し、監禁されていた邦人は全員救出された。8日、日本政府は駐ソ連大使天羽英二を通じてソ連政府外務人民委員会次長レフ・カラハンに蘇の身柄の引き渡しを要求したが、カラハンは内政干渉だとしてこれに応じなかった〔蘇炳文の措置は露国の国内問題 大阪時事新報 1932.12.12(昭和7)〕。 翌年4月14日、帰国が許可され、馬占山とともにモスクワを出た。道中在外華僑の歓迎を受けつつ欧州を回り、6月5日に上海に到着し、上海市民より熱烈な歓迎を受けた〔http://www.zwbk.org/zh-tw/Lemma_Show/263439.aspx〕。 同月下旬、軍事委員会委員の推薦を受け、同時に中将に昇進したが、応対した蒋介石の反応は冷ややかなものであり、こうした肩書きも名ばかりのものであった〔馬占山、蘇炳文等冷遇されて憤慨 満州日報 1933.7.18(昭和8)〕。 南京陥落後の1938年5月、二級上将に昇進、重慶政府軍事委員会軍事参謀官となる。8月、軍委会戦区軍風紀巡察団第三団主任委員となる。1940年1月、同部隊の廃止に伴い予備役となる。 中共成立後、周恩来により政協委員へと任命され、中央人民政府第三届委員、黒龍江省民革副主委、政協常委、省体育運動委員会主、省人民委員会参議室参事を歴任するが、文化大革命中に右派として糾弾され、政界を追われる〔〕。 1975年5月22日、病気のため、ハルビン市内の病院にて死去。 享年83。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘇炳文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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