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陽人の戦い(ようじんのたたかい)は、中国後漢末期の191年、袁紹・袁術率いる「反董卓連合軍」の孫堅軍と朝廷軍率いる董卓の軍が、司隷河南尹梁県の陽人において衝突した戦いである。 ==反董卓連合軍== 董卓は勝手に劉弁(少帝)を廃位し陳留王(献帝)を皇帝に即位させたり、洛陽の富豪から金品を強奪したり、女官を凌辱するなど暴虐の限りを尽くしていた。 190年、董卓の専横に反発した橋瑁が三公の回付の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作ったことや、張超の部下の臧洪の呼びかけなどにより、袁紹・袁術・鮑信・王匡・孔伷・劉岱・張邈・張超・橋瑁・袁遺・韓馥・朱儁・許瑒・李旻・崔鈞らはそれぞれ数万の兵を率いて同時に挙兵し、袁紹を盟主として反董卓連合軍を結成した。当時、孫堅は数万の兵を率いていたが、袁術に従属し、この戦いに参加した。曹操は家財を使って義兵を集め、『世語』によれば5千の兵を率いて反董卓連合軍に参加した。また孫堅に殺された王叡の代わりに、荊州刺史になったばかりの劉表も反董卓連合軍に参加した。反董卓連合軍は洛陽を東から囲むように河内や酸棗や南陽などに駐屯した。 董卓は袁紹が挙兵したと聞くと、袁紹・袁術の叔父の袁隗をその三族共々殺害した。 董卓は弘農王となった前皇帝の劉弁を毒殺し、防衛に不利な洛陽を避け長安に強制的に遷都した。また洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れ、宮殿・民家を焼きはらった。その後も董卓は洛陽に駐屯し、反董卓連合軍を迎え撃った。 当初、反董卓連合軍は十数万人の兵を集めながら、会議と酒盛りに明け暮れており、積極的に戦おうとしなかった。 190年3月、曹操・鮑信は消極的な袁紹らに業を煮やし、積極的に董卓軍に戦いを挑んだが、滎陽の汴水で董卓配下の徐栄に大敗し、反董卓連合軍の衛茲・鮑韜らが戦死した。 孫堅は梁の東部で董卓配下の徐栄に敗れ、反董卓連合軍についていた頴川太守の李旻が捕まって煮殺された。 190年冬、王匡は董卓を襲撃するために河陽津に軍団を集結させていたが、董卓は陽動作戦を用いて王匡軍の背後をつき、王匡軍を大いに破った。 袁紹・韓馥・張超は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、皇族の劉虞の擁立を計画したが、劉虞や袁術や曹操はこれに強く反対した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陽人の戦い」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Hulao Pass 」があります。 スポンサード リンク
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