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『虐げられた人びと』(しいたげられたひとびと、)は、フョードル・ドストエフスキーの長編小説で、1861年にドストエフスキー自らが主宰する文学雑誌『時代』に創刊号から7回にわたり連載された。同時代の著名な批評家ニコライ・ドブロリューボフは「ドストイェーフスキー氏の長編は今の所本年度の文学の白眉となっている」(重石正己・石田正三共訳『打ちのめされた人々』)と、当時の文壇や読者からも好評であったことを伝えている。 == 概要 == 4部とエピローグからなる。 本作品は、シベリア流刑後に『死の家の記録』と相前後して発表された本格的な長編小説で、『死の家の記録』がシベリア流刑体験を基にしているのに対して、この作品ではドストエフスキーのデビュー作品である『貧しき人々』執筆直後の自身が下敷きにされている。その意味でこの長編はドストエフスキーの文学的出発点への立ち還りと再出発への強い意志が籠められた作品である。 小説では、二つの悲話が並行して進んでいく。一つは、物語の語り手「私」(イワン・ペトローヴィチ)の妹でもあるナターシャとその家族の悲話、そしてもう一つは少女ネリーとその家族をめぐる悲話である。この二つの悲話にはある共通点がある。それは娘が愛する男のために家族を裏切り破滅の淵にまで追いやるという点である。そして二つの悲話はワルコフスキー公爵という男を結節点にして次第に絡み合い、やがてクライマックスを迎える。 タイトルにある「虐げられた」人びとは、主として販売請負人、工場経営者などのブルジョア階級及び小地主である。それに対して、「虐げる」人ワルコフスキー公爵は大地主の貴族であり、こうしたブルジョア階級や小地主の人びとを踏み台にして社交界をずる賢く生き延びようとする人物である。それはまさに19世紀中頃のロシア上流社会を泳ぎ回っていたであろう金権と好色と出世欲にまみれた醜悪な諸々の「虐げる」人びとの凝縮された姿であるにちがいない。 この人物像は後の『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、『悪霊』のスタヴローギンへと連なる悪魔的人物の萌芽ともいえる。そして彼らの醜悪さとニヒリズムはロシアにおける封建的社会から市民社会への過渡期の社会状況を映し出すものとなっている。 「虐げられた」人びとはワルコフスキー公爵の狡猾な悪巧みに次第に追い詰められていくが、しかし彼らの気高い自尊と矜持の姿に、読むものは心を打たれる。とりわけ少女ネリーは、イギリスの作家ディケンズの『骨董屋』に登場する少女をモデルにして創作されたものといわれているが、その強靱な意志と純粋なけなげさには感動を禁じ得ない。第4部の橋の上の場面は黒澤明監督『赤ひげ』にも影響を与えたことが知られている。またナターシャも優しく傷つき易いが、その聡明さと芯の強さではワルコフスキー公爵に負けてはいない。ただこの小説に登場する女性はいずれもナターシャやカーチャも含めてドストエフスキーの後の作品に登場する女性たちに見られるような気性の激しさや小悪魔性というものはまだ見られない。その点で、この作品はドストエフスキーの作品のなかでは、穏健で比較的読みやすい部類に属している。 ただ第4部についてはドストエフスキー自ら「ずるずる引きずって印象を弱めてしま」(中村健之介訳『ドストエフスキーの手紙』)ったと友人への手紙でも述べているように、やや冗長でぎくしゃくした所がみられるのは否めない。しかし結果的にはそれが終盤のクライマックスの高揚感へとつながっているともいえる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「虐げられた人びと」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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