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蛟斎北岑 : ウィキペディア日本語版
蛟斎北岑[こうさい ほくしん]
蛟斎 北岑(こうさい ほくしん、文政7年4月1日1824年4月29日) - 明治9年(1876年5月9日)は、江戸時代後期の浮世絵師
==来歴==
葛飾北斎の門人。姓は府川、名は初め重三郎、後に重次郎といった。巨外史、九々蜃、竜斎、北岑、北嶺と号す。江戸の人。十返舎一九の門人・五返舎半九の三男。江戸深川六軒堀中橋に生まれる。子供の頃から絵を好み、徒童と号して髪結い床の入り口障子に「魯智深の図」を描いたことがきっかけで、父の友人で北斎門人であった抱亭北鵞の仲介によって、天保6年(1835年)、12歳で北斎の門人となったとされる。北岑は主に肉筆画を手がけている。「岩上鷲図」は、岩の上に止まりジロリと観者を見つめる鷲を一羽描いたもので、一見何の変哲も無いような図であるが、鷲の描写の精緻さと岩の簡略な描法の対比が面白くて妙に印象に残る作品である。本図には北斎による「粟に鷹図」(MOA美術館所蔵)に描かれている鷹の観者を見つめる目と同じ目が見られ、この目が観者の心を捕らえるのかもしれない。
北斎の没後、嘉永5年(1852年)、29歳の時、金工家の東益常の門に入り、彫金家になった。以前より、東益常から刀剣装具の下絵を依頼されていたことが北岑の転身の契機となったといわれる。初めは常行と称し、安政元年(1854年)に一則と改めた。そして柳蛙子、蛟竜斎、蛟一則と銘した鐔(つば)や小柄、目貫を造っている。さらに幕末、鉄銭が横行するなか、文久3年(1863年)には、銅銭・文久通宝の母銭を造ったことで知られている。明治9年(1876年)5月9日、53歳で江戸深川にて没した。墓所は芝増上寺雲晴院。北斎の娘・葛飾応為が北岑にあてた北斎の死亡通知書が残されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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