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蛮社の獄[ばんしゃのごく] 蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。 == 背景 ==
=== 学問的背景 === 天保年間(1830年代)には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていた。渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ集団)と呼ばれた。 後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は幕府の文教部門を代々司る林家の出身であり、幕府は儒学の中でも朱子学のみを正統の学問とし他の学説を排除したが林家はその官学主義の象徴とも言える存在で、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとり蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また林家の門人でありながら蘭学にかぶれさらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても同様の感情が生まれていた。 以上の通説に対して田中弘之は、林述斎(耀蔵の実父)は儒者や門人の蘭学者との交流に何ら干渉せず寛容であり、また後述するように述斎はモリソン号事件の際、幕府評定所の大勢を占める打ち払いの主張に反対して漂流民の受け入れを主張しており、非常に柔軟な姿勢がうかがえること、鳥居も単なる蘭学嫌いではなく、多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して反対するなど、その実用性をある程度認めていたこと、そもそも林家の三男坊にすぎなかった鳥居耀蔵は鳥居家に養子に入ることにより出世を遂げたため、鳥居家の人間としての意識のほうが強かったことを指摘している。また、崋山の友人である紀州藩の儒者・遠藤勝助は、救荒作物や海防について知識交換などを目的とした学問会「尚歯会」を創設したが、崋山・長英・三英はこの会の常連であったために「蛮社=尚歯会」「蛮社の獄=尚歯会への弾圧」という印象が後世生まれたが、尚歯会の会員で蛮社の獄で断罪されたのは崋山と長英のみであり、その容疑も海外渡航や幕政批判・処士横議で、会の主宰であった遠藤をはじめ他の関係者は処罰されておらず、そのような印象は全くの誤解だとしている〔田中弘之『「蛮社の獄」のすべて』(2011年 吉川弘文館)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蛮社の獄」の詳細全文を読む
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