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蜷川 幸雄(にながわ ゆきお、1935年10月15日 - )は、日本の演出家、映画監督、俳優。桐朋学園芸術短期大学名誉教授。 == 来歴 == 埼玉県川口市出身。生家は洋服店。父親は川口オートのオーナーだったことがある。小中学生時代は近所に下宿していた後の立教大学総長浜田陽太郎が家庭教師であった。 1年留年して開成高等学校卒業。画家を志して東京藝術大学美術学部を受験するが失敗し、将来の進路に迷っていたとき偶然「劇団青俳」による安部公房『制服』の公演に接し、衝撃を受けて「劇団青俳」に参加〔妹尾河童『河童が覗いた仕事師12人』p.68-69(新潮文庫)〕。俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向する(それ以降もある時期までは俳優業は続けていた)。アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、若者層を中心に人気を集める。1970年代半ばから商業演劇に活動の場を移し、大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表。1990年代以降は中劇場の空間を好んで使っている。 演出作品は、清水邦夫、唐十郎、井上ひさし、野田秀樹、岩松了などの現代劇から、ギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたる。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とする、現代日本を代表する演出家のひとり。海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。 起用する出演者はトップスターや実力派俳優から人気アイドルまでと幅広く、意表をついたキャスティングで話題を呼ぶ。 短気な気質で演技指導の厳しさでも知られ、「口よりも手よりも先に、物(特に、靴)が飛んでくる」と言われるほど、一般的にはスパルタ演出家のイメージが強い。一方で人情的で心優しく、「周りにだけでなく、同様に自分に対しても厳しい」姿勢で仕事をするため、数多くの俳優やスタッフから慕われている。また、この指導を受けたことで役者としての実力をつけた俳優やタレントは数多い。 現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇『さまよえるオランダ人』、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』、尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』などを演出、ほかにも映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーなど、さまざまな媒体や舞台での演出を手掛けている。エッセイ集も出しているが、自身は、文章を書くことは楽しくはないが断れずにやっている、という。 『私の履歴書』によると、俳優時代は「劇団青俳」の木村功や岡田英次などに可愛がられたという。そして、俳優より演出家として成り立っていったある日、出演していた時代劇〔この時代劇とは、1979年の『水戸黄門』第10部(六条三位役)である。〕を見た太地喜和子から、俳優としての演技にダメ出しされた事を切っ掛けに演出家一本に絞ることにしたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蜷川幸雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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