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行巡 : ウィキペディア日本語版
行巡[こう じゅん]

行 巡(こう じゅん、生没年不詳)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将または政治家。涼州天水郡平襄県(甘粛省通渭県)の人。

== 事跡 ==

隴右〔中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋時代の僅かな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。〕に割拠した新末後漢初の群雄の1人隗囂の配下である。隗囂が挙兵して名声を高めると、行巡もその配下に加わり、大将軍に任命されている。
建武6年(30年)夏、隗囂は光武帝に反逆して、蜀(成家)の公孫述討伐のために隴右入りした耿弇らの漢軍を駆逐し、さらにその勢いを駆って、行巡と王元に三輔を攻撃させた。しかし、行巡が漢軍の馮異の前に敗北するなどして、この進攻は失敗に終わっている。翌建武7年(31年)、隗囂は公孫述陣営に加わり、朔寧王に封じられた。
建武8年(32年)春、漢の来歙が略陽(天水郡)を奇襲して攻め落とすと、行巡は隗囂の命により番須口を守ることで他の漢軍の進攻に備え、隗囂は略陽を包囲攻撃したが、数ヶ月経っても陥落せず、光武帝の親征を受けて敗走する。さらに漢に降った王遵の工作により、隗囂軍は次々と切り崩され窮地に陥り、隗囂が西城(隴西郡)に追い込まれてしまった。この時、王元が蜀から5千人余りの援軍を借りて救援に駆けつけると、行巡も周宗と共にこれに合流して隗囂の救援に向かった。漢軍との激戦の末、行巡らはついに隗囂を救出し、冀県(天水郡)へ退却することに成功している。また、漢軍も兵糧不足のため撤退し、安定・北地・天水・隴西の各郡は再び隗囂に帰属した。
建武9年(33年)1月、冀県で隗囂が病死したため、行巡は、王元、周宗らと共に、その遺児隗純を後継の朔寧王として擁立した。しかし翌建武10年(34年)10月、隗純らは来歙に落門聚(天水郡冀県)で敗北し、行巡は、隗純・周宗らと共に漢に降伏した。
これ以後、行巡の名は、史書に見えない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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