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行政事件訴訟法(ぎょうせいじけんそしょうほう、昭和37年5月16日法律第139号)は、事後における救済制度としての行政事件訴訟についての一般法(1条)として制定された日本の法律である。行政法における行政救済法の一つに分類される。杉本良吉 (裁判官) が 立法担当者であった。 国家賠償法、行政不服審査法、行政事件訴訟法を合わせて「救済三法」と呼ぶ。 ==沿革== 明治憲法下の日本における法制度としての行政事件訴訟法のルーツをたどれば、1882年の伊藤博文のヨーロッパ派遣まで遡る。伊藤博文は、ベルリンとウィーンにおいて、モッセとシュタインに行政訴訟などについて学んだ。 そして、大日本帝国憲法第61条に基づき1890年に「行政裁判法」、「訴願法」が制定された。「行政裁判法」における行政裁判所は東京に1つだけ設置され行政事件に関する一審かつ最終審の裁判所とされた。この法律は、列記主義が採用された(行政裁判所の管轄事項が法令で列挙されたものに限定されていた)こと、審理において書面審理主義の原則、職権主義の原則が採用されたこと、訴願前置主義(「不服申立て前置主義」)が採用されたこと、出訴期間が短期間であったことなどの特徴(欠陥)があって、国民の権利救済として機能していたとはいい難いという指摘もある。 日本国憲法の下では、日本国憲法第76条によって、最高裁判所の下に属しない行政裁判所は廃止されることとなった。但し、この措置は、最高裁判所を終審としていない裁判所を廃止したにすぎないことに注意すべきである。そして、日本国憲法の施行にともない、とりあえず「日本国憲法の施行に伴う民事訴訟法の応急的措置に関する法律」が1947年(昭和22年)に制定された。この法律では行政訴訟について民事訴訟法と同一の取り扱いを原則として、行政処分の取消し又は変更を求める訴訟に関して出訴期間の規定のみが置かれた。 その後、いわゆる平野事件を契機として1948年(昭和23年)に「行政事件訴訟特例法」が制定された。この法律は、民事訴訟法の特例を定めたものであり、全文でわずか12条のみの簡単なものであった。この法律は、制定が急がれたため、欠陥も多く明治憲法下における「行政裁判法」と決別しきれておらず運用・解釈上における多くの問題が発生した。そして、この法律が改正されて1962年(昭和37年)に現行の「行政事件訴訟法」が制定されたのである。 現在の日本における行政上の紛争は年間およそ20万件以上とも言われるが、実際の行政事件訴訟の提起件数は2千件弱程度と少なく、また、行政事件訴訟の勝訴率は10%前後と低い。加えて、行政事件訴訟の訴訟要件(処分性、原告適格など広義の法律上の利益、被告適格等)は制限的に解釈・運用されており、日本国憲法第32条で保障されている「裁判を受ける権利」は形骸化しているともされる。これらのことから、現行の行政事件訴訟法は、行政救済法としての国民の権利利益の救済の機能及び違法な行政運営の是正の機能としては不十分であるという指摘がされた。 そこで、司法制度改革の一環として「行政事件訴訟法の一部を改正する法律」(平成16年6月9日法律第84号)が制定された。主な改正点は、救済範囲の拡大(原告適格の拡大、義務付け訴訟・差止訴訟の法定化)、審理の充実・促進(裁判所の釈明処分の新設)、提訴に関する制度の拡充(被告適格の明確化、管轄裁判所の拡大、出訴期間の延長、出訴期間等の教示制度の新設)、仮の権利救済制度の整備(執行停止の要件の緩和、仮の義務付け・仮の差止めの制度の新設)である。なお、同法の施行日は、2005年(平成17年)4月1日である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「行政事件訴訟法」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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