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袁オウ : ウィキペディア日本語版
袁オウ

袁 盎〔『漢書』では爰盎と記される。〕(えん おう、生没年不詳)は、前漢の人物。(絲)。兄は袁噲〔『史記』袁盎鼂錯列伝より。〕、甥は袁種(兄の子)〔。文帝景帝に仕えた。
== 略歴 ==
安陵の人だが、父はの出身で、群盗であったが後に長安付近の安陵に移住した。呂后の時代、袁盎は呂禄の舎人となり、文帝が即位した後に兄袁噲の任子により郎中となった。
呂氏を打倒して丞相となった周勃は、功臣で文帝を皇帝に推挙した一人であるという理由もあり、文帝もへりくだっていたが、袁盎は文帝に「呂后の時代に太尉となり兵権を持ちながらも正すことができないでいた丞相は、功臣であって社稷の臣ではありません。丞相が驕り陛下が謙譲するのはよろしくありません」と進言し、その後は文帝は威厳を見せるようになった。丞相周勃は「私はお前の兄と仲が良いのに、どうして私のことを誹謗するのか」と責めたが、袁盎は謝らなかった。その後、周勃が丞相を辞めて領国に帰ると、反乱を計画しているとの告発があって獄に下された。大臣たちは誰も彼を弁護しなかったが、袁盎だけは弁護し、そのおかげもあって周勃は許された。以後、周勃は袁盎と付き合うようになった。
淮南王劉長審食其を殺すなど驕慢であったため、袁盎は文帝に領地を削るよう勧めたが、文帝は許さなかった。しかし淮南王はますます驕り、反乱を計画してそれが発覚した。文帝は淮南王をに遷そうとした。当時中郎将であった袁盎は「淮南王が道中で死亡したら、陛下に弟殺しの名が付いてしまいます」と反対したが、文帝は従わなかった。しかし淮南王は道中で死亡し、悔やむ文帝に対して、袁盎は今度は文帝の美点を挙げて気持ちを和らげた。
ある時、文帝が覇陵から険しい坂を下ろうとすると、袁盎はそれを止めた。文帝が「怖いのかね?」と聞くと、袁盎は「千金の資産家は、落ちないよう堂の隅には座らないと言います。陛下の身に万一のことがあればいかがいたしますか」と諌めたので、文帝は坂下りを止めた。
また、文帝が皇后と寵姫の慎夫人を伴って上林に行幸した際、皇后と慎夫人が同等の座席であるのを見た袁盎は、慎夫人の座を下げたので、慎夫人は怒って座ろうとしなかった。袁盎は「尊卑の秩序がはっきりすれば上下が和するものです。陛下は皇后を立てており、慎夫人は妾でございますので、どうして同じ座に座れましょう。寵愛なさるなら褒美を与えれば良いのであり、陛下のなさっていることは慎夫人に禍を与えているようなものです。『人豚』〔呂后が高祖劉邦死後に劉邦の寵姫戚氏の手足を切り「人豚」と称した。これは劉邦が厚く寵愛したことへの嫉妬が原因と言われる。〕の件をご存じでしょう」と諌めたので、文帝は喜び、慎夫人にもそれを話した。慎夫人も袁盎に金を下賜した。
袁盎は直諫が多かったので、長く朝廷にいられず、隴西都尉となった。任地では士卒に仁愛の心で接したので、士卒は彼のため争って死に赴くようになった。次いで斉の丞相、呉の丞相と遷った。呉に行く際、甥の袁種は袁盎に「叔父上、呉王は野心が多く、周辺も奸臣だらけです。厳しい統治を行おうとすれば、呉王が刺客を送り込みます。日々酒を飲んで仕事をせず、呉王には『反乱してはなりません』と言うだけにすれば、危機を脱することができるでしょう」と進言し、袁盎は甥の忠告どおりにしたので、呉王劉濞は、中央から派遣された役人にもかかわらず彼を厚遇した。
袁盎が都に戻ってきてから、道で丞相申屠嘉に出会ったが、申屠嘉は車上から挨拶するだけであった。袁盎は申屠嘉の元を訪ね、申屠嘉に対し天下の口を閉ざす態度では身を滅ぼすと説いた。申屠嘉は失礼を詫び、袁盎を上客として扱った。
袁盎と晁錯は仲が悪く、互いに相手が座っているとそれを避け、同じ堂で会話したこともないというほどであった。景帝が即位すると、晁錯が御史大夫となり、晁錯は袁盎が呉王の財物を受け取ったことを取り調べさせて有罪とし、袁盎は庶人となった。
景帝前3年(紀元前154年)、呉王らが反乱(いわゆる呉楚七国の乱)を起こすと、袁盎は呉王の企みを隠していたのではないかと晁錯は考え、彼を捕えようとした。それを知った袁盎は夜間に竇嬰の元を訪ねて、呉が反乱に至った理由を語り、景帝との謁見を願った。景帝との謁見が叶うと、袁盎は呉が反乱した理由に晁錯の領土削減策への恨みを挙げ、晁錯を処刑して呉に謝罪すれば反乱が止むと説いた。袁盎は奉常、竇嬰は大将軍に任命され、長安中の者はこの両者につき従った。
晁錯は袁盎の計により処刑され、袁盎は和睦のため呉王の弟の子である劉通(徳頃侯)と呉へ向かい交渉したが、優勢な状況に呉王は「これから皇帝になる私が、何故王の言葉を聞いてやらねばならぬのか」と言うほど奢っており、袁盎を将軍にしようと誘った。袁盎は同意しなかったので拘禁し、殺そうとした。その時、かつて呉で助けたことのある人物の手引きにより、袁盎は逃亡することができた。
呉王らの反乱が終結した後、袁盎は新たに楚王に封じられた劉礼の丞相となった。その後、病気を理由に辞任して郷里安陵に戻ったが、景帝は事あるごとに人をやって彼に意見を聞いた。梁王劉武が呉楚七国の乱の功績を盾に皇太子になろうとしていることに袁盎が反対したので、梁王は彼を恨んで刺客を送り込んだ。刺客が袁盎について聞き込みすると、皆が彼を絶賛した。刺客は袁盎に会い、「私は梁王より金を貰い、貴方を殺すよう頼まれましたが、貴方が大人物であるので殺すに忍びません。しかし刺客はまだ何人もいますので、彼らに備えてください」と言った。その後、家に怪しいことが多かったので占いに出かけた帰りに、袁盎は梁王の別の刺客に殺された。
墓は景帝の孫である広川王劉去(劉去疾)の盗掘によって徹底的に破壊され、荒らした後には粉砕された棺の他は何も残っておらず、わずかに銅鏡1枚だけが落ちていたといわれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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