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袴田 英利(はかまだ ひでとし、1955年8月13日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球コーチ。 == 来歴・人物 == 静岡県自動車工業高等学校では1973年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、植松精一のいた静岡高に敗退。同年ドラフト3位でロッテオリオンズに指名されるも入団せず。進学した法政大学では江川卓とバッテリーを組み、新井宏昌や高代延博、金光興二、植松精一、島本啓次郎といった選手たちとともに法政黄金時代を築いた。東京六大学リーグでは5回優勝、1976年から明治神宮野球大会で2年連続優勝。リーグ通算89試合出場、287打数86安打、打率.300、6本塁打、43打点。ベストナイン4回。1975年、1976年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。 1978年、ドラフト1位でロッテオリオンズに入団。期待されながら高橋博士、土肥健二両捕手の壁をなかなか破れず、二軍暮らしが長かった。しかし1981年山内一弘監督最終年の前期優勝に貢献し1981年のパシフィック・リーグプレーオフ第3戦のみマスクを被ったがロッテは同試合含め敗戦含め1勝3敗1分で日本ハム球団に敗退して江川が大黒柱としてセリーグレギュラーシーズン最高勝率球団導いた読売ジャイアンツとの1981年の日本シリーズ進出ならなかった。1982年に頭角をあらわし、1984年には127試合に出場。同年は規定打席(23位、打率.259)にも達して、レギュラーポジションを確実なものとする。以後、派手さはないものの、堅実なリードとファイト溢れるプレーで、チームの中心選手として活躍した。オールスターゲーム出場2回(1982年と1985年の2度、いずれも江川とは対戦機会皆無だった)。 前述のように堅実なリードが売りの一つであったが、プロ入り当初は、ある試合で仁科時成をバッテリーを組んだ際、出すサインのほとんどに首を振られショックを受けたという。そのショックをバネにリード力を向上させ、リードの奥深さを知ることができたという。袴田は「(僕がここまでになれたのは)仁科さんに出会えたから。僕がレギュラーになってからロッテの投手陣で僕のサインに最も首を振らなかったのが仁科さんだった。あの仁科さんが、僕のことを信頼し、任せてくれた。最初のことがあっただけに、ものすごく嬉しかった。」と振り返っている〔『野球小僧 8月号 2011』白夜書房、p.155〕。 また、村田兆治とバッテリーを組んだ際には、ノーサインで受けることが大半だったという。これについて袴田は、「村田さんの視力が悪かったこともあり、サインと違うボールが来ることが多かったため、先入観の入らないノーサインのほうがいいと思った。」と振り返っている〔『野球小僧 8月号 2011』白夜書房、p.153〕。 1990年限りで現役引退。やはり同年限りで引退する村田兆治のラスト登板にて、久々の一軍先発捕手として出場した試合が自身にとっても最後となった。これは村田からの「俺のキャッチャーはお前以外にいないんだ。だから俺と共に去るんだ」「お前とじゃなきゃ終われないんだよ」という指名によるものだった。試合後、袴田は村田に報道陣が群がるのを尻目に一人泣きながらベンチに戻りかけた。これに気付いた記者から「やはり村田さんが引退となると寂しいですか? 」と聞かれ、「ていうか僕も今日で引退なんです」と答えている。 引退の原因の一つは、ラルフ・ブライアントの体当たりスライディングをまともに受けた打撲による負傷である。この負傷の際、川崎球場の高齢の当直医が登場する際の仕草がおかしかったため、後に珍プレー特集で放映され、スタジオが大いに沸いた。 引退後はロッテのバッテリーコーチに就任した。1998年から1999年まではスカウトを務めた〔『野球小僧 8月号 2011』白夜書房、p.149〕。なお、ロッテオリオンズで規定打席に到達した捕手は1985年の袴田で最後となる(千葉移転後は2006年に里崎智也が規定打席に初めて到達した)。2012年10月15日、球団から来季のコーチ契約更新はない旨を通知された〔コーチ契約に関するお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月15日〕。2014年からは埼玉西武ライオンズ一軍チーフコーチ兼バッテリーコーチに就任〔2014年度 コーチングスタッフ発表! - 埼玉西武ライオンズ・オフィシャルサイト 2013年10月22日〕。監督の伊原春樹休養後は一軍ヘッドコーチ兼バッテリーコーチに配置替えとなる。2015年10月4日に今季限りで契約満了することが通知された〔コーチ契約についてのお知らせ - 西武ライオンズ・オフィシャルサイト 2015年10月4日〕。2016年より、ベースボール・チャレンジ・リーグ・武蔵ヒートベアーズのヘッドコーチに就任〔 - 武蔵ヒートベアーズ Musashi Heat Bears web page 2015年12月17日〕。 法政大時代は江川卓の剛速球、ロッテ時代は村田兆治のフォークボールをノーサインで捕球し、名捕手と呼ばれた。(ただし村田のフォークボールをパスボールにすることもままあった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「袴田英利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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