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裴ケイ : ウィキペディア日本語版
裴ケイ[はいけい]

裴鉶(はいけい)は晩唐の官僚、作家。生歿年は不明であるが、大略大中から光啓文徳)に掛けての懿宗僖宗の頃(基督教暦859年から888年。下皆效此)の活動が伝えられている。伝奇集『伝奇』の撰者で〔『新唐書』巻59志第49芸文3。〕、谷神子(こくしんし)と号した。
懿宗の咸通5年(864年)から9年に掛けて、がであった時に高の掌書記として仕えて侍御史内供奉の官を加えられる〔『全唐文』巻805。今村与志雄訳『唐宋伝奇集(下)』(岩波文庫、1988年)「崑崙奴」訳注に拠る。但し静海軍節度使が設けられたのは咸通7年11月で、その以前の高の官名は安南都護兼安南経略招討使であった。〕。この間道教信者であった高〔静永健「新羅文人崔致遠と唐末節度使高駢の前半生」『文学研究』105輯、九州大学大学院人文科学研究院、平成20年(九大コレクション )。〕が神仙の話を好んだ為に『伝奇』を著して進めたといい〔胡応麟少室山房筆叢(しょうしつさんぼうひつそう)』巻26「荘嶽委談下」。『中国学芸大事典』「裴鉶」項に拠る。〕、現伝するその諸則を通じても道教的要素が強い点は認められ〔溝部良恵『広異記・玄怪録・宣室志他』(中国古典小説選6)「伝奇(抄)解説」、明治書院、2008年。〕、裴が洪州の鍾陵(しょうりょう。現中華人民共和国江西省南昌市)の山中で道教の修行に励んだとの伝もある〔北宋雲笈七籤』巻88仙籍旨訣道生旨条。〕ので同じく道教を信奉していたものと思われる〔黒田真美子『枕中記・李娃伝・鶯鶯伝他』(中国古典小説選5)「聶隠娘解説」、明治書院、2006年。〕一方、或いは高に迎合しただけであった可能性もある〔久須本弘煕「裴鉶『伝奇』について」『東洋文化』16号、東洋文化振興会、昭和45年。〕。
僖宗乾符5年(878年)、御史大夫を授かっての副使となる〔『唐詩紀事』巻67。今村前掲訳注と前野直彬編訳『六朝・唐・宋小説選』(中国古典文学大系24、平凡社、昭和43年)「解説」とに拠る。〕。乾符2年から5年迄は高が兼成都尹(の)であったので、裴の節度副使赴任は高が成都を去った後の事と思われ、また、こうした官職は同代伝奇作家に比べると官僚として出世した方であり、その背景に高の推挽があったものと考えられる〔前掲今村訳注、前野解説。〕。以後の経歴を伝える記録は残されていないが、光啓3年(887年)に高が弑され幕下の吏も悉く誅された際には高と距離を置いて難を逃れたようである〔今村前掲訳注。〕。
作品には『伝奇』の他に、『全唐詩』巻597に収めるに題した七言律詩1首、『全唐文』巻805に収める「天威径新鑿海派碑」1篇が残され、また、谷神子名義で『道生(士)旨』1巻を著している〔南宋鄭樵通志』巻67芸文略第5道家2論類。なお、『道生(士)旨』は張前掲書に引かれている。〕。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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