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西フロリダ(英:West Florida)は、メキシコ湾北岸の東西に広い地域であり、18世紀後半から19世紀初頭にその地域を表すために使われた名前である。その歴史において何回も境界と支配者が変わった。この地域を統治したのはフランス、スペイン、イギリスおよびアメリカ合衆国であり、一時期ではあるが西フロリダ共和国として独立し、また南北戦争の時はアメリカ連合国に属した。最終的にはアメリカ合衆国が地域全体を統治し、現在ではルイジアナ州、ミシシッピ州、アラバマ州およびフロリダ州の一部となっている。 == 戦争の駒 == 西フロリダは、1682年から1763年まで、東部のスペインと西部のフランスに分かれて統治されていた。スペインはフロリダ植民地の一部としてペンサコーラに拠点を置いていた。フランスはフランス領ルイジアナの一部としてモービルを拠点としていた。フランス領ルイジアナは、ヌーベルフランスの一部とも考えられた。七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)を終結させるパリ条約の交渉において、イギリスはスペイン領フロリダとフランス領ルイジアナの一部を譲り受けた。フランス領ルイジアナの一部とは、ミシシッピ川とペルディド川の間でポンチャートレイン湖の北の地域であった。フランスは別の条約でルイジアナの残りをスペインに割譲した。イギリスはその領土を東フロリダと西フロリダに分割した。東フロリダは現在のフロリダ州にほぼ相当し、西フロリダはミシシッピ川とポンチャートレイン湖を西の境界に、北緯31度線を北の境界に、アパラチコラ川を東の境界にしていた。西フロリダの首都はペンサコーラとし、1763年11月の知事はジョージ・ジョンストンであった。 1764年、イギリスは北部境界を北へ動かし、ヤズー河口から東にチャッタフーチー川まで、北緯32°28'に設定し、現時のミシシッピ州とアラバマ州の南部およそ3分の1を含むことになった。アメリカ独立戦争の間、知事はピーター・チェスターであった。フロリダ駐在イギリス軍の指揮官はジョン・キャンベル・オブ・ストラチャーであった。 アメリカ独立戦争を終結させる1783年のパリ条約で、イギリスはフロリダをスペインに戻したが境界をはっきりさせていなかった。スペインは1764年の拡張された境界を望んだが、アメリカは北緯31度線を要求した。1795年のサンロレンゾ条約で、スペインは31度線を境界と認めた。 1800年の秘密ので、スペインは元フランス領ルイジアナをフランスに戻した。しかし、この時も境界をはっきりさせていなかった。1803年にフランスがアメリカにルイジアナを譲渡(ルイジアナ買収)したとき、スペインとアメリカの間に別の境界紛争が起こった。アメリカはペルディド川からミシシッピ川までを主張したが、これは1763年にフランスが割譲した時の古いルイジアナ植民地の一部であった。スペインはその地域を西フロリダの一部として管理していたことと、1800年にフランスに返還した領土の一部ではないと主張した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西フロリダ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 West Florida 」があります。 スポンサード リンク
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