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西ローマ帝国(にしローマていこく)は一般的に、テオドシウス1世死後のローマ帝国の西半分を領有した国家を指す。なお、広義には286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国のテトラルキア導入後のローマ帝国の西半分や、3世紀から5世紀までの間、テトラルキア以降の帝国の西半分に割拠した勢力を指す用例もある。 なお、「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称で、両国とも当時の政府や住民は自らの国を単にローマ帝国と自称しており、複数の皇帝が帝国領土を分割統治するのも、単に広大な領土を有効に統治するための便宜にすぎないと考えていた。この観点からいうならば、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家は存在せず、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる〔例えばローマ市では443年に地震で破損したコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置された碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。本村凌二編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233〕。西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ帝国は(滅亡の1453年にいたるまで)自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした認識によるものである(東ローマ帝国の項を参照)。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その2人の息子アルカディウスとホノリウスをともに皇帝として、ローマ帝国は東西に分割された。滅亡年は一般に476年9月4日(ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位)というのが一般的な説であるが、480年(ユリウス・ネポス殺害)とする説もある。通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 なお、東ローマ帝国は、西ローマ帝国滅亡から1000年近く存続したが、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた。詳細は「東ローマ帝国」の項目を参照のこと。 西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、もとの西ローマ帝国の版図の中から新生の好戦的な蛮族の王国がいくつも登場し、ついにはカトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用した。徐々にこれら蛮族は、自らをローマの遺産の「真の相続者」とみなすようになっていった。 == 背景 == 共和政ローマが版図を拡大するにつれて、ローマに置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制(クルススプブリクス)で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため属州は、共和政ローマの名のもとに、実質的には属州総督によって統治された。 帝政が始まる少し前、共和政ローマの領土は、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、マルクス・アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治により分割統治されていた。 アントニウスは、アカエア、マケドニア 、エピルス(ほぼ現在のギリシャ)、ビテュニア、ポントゥス、 アシア、シュリア、キプロス、キュレナイカといった東方地域を手に入れた。こうした地域は、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって征服された地域で、ギリシャ語が多くの都市で公用語として使用されていた。また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。 これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)、ヒスパニア(イベリア半島)である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように文化的にケルト人に支配されている地域もあった。 レピドゥスはアフリカ属州(現在のチュニジア)を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。 アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは一時的に東方を代理として支配した。同じことはティベリウスが東方に行った際に甥に当たるゲルマニクスによって行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西ローマ帝国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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