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西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 2003年11月22日)は、日本の官僚、政治家。茨城県水戸市出身。 == 来歴・人物 == 内務省、戦後に自治省係長、岩手県出納長、宮城県副知事、日本社会党所属の衆議院議員。 岩手県出納長を経て、1956年10月に新たに宮城県知事に就任した大沼康の副知事に任命される。1959年3月、大沼の急逝を受けて知事選に立候補したが、落選。翌1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で宮城1区から出馬し初当選。1963年に再度、宮城県知事選に立候補するが落選。同年の第30回衆議院議員総選挙に再出馬し当選した。 国会では統一教会の霊感商法を初めとする様々な問題を取り上げ、政府に対処を迫った。全金本山労働組合争議では、支援共闘会議議長を担う。支援集会後のデモ行進で揉みあいとなった機動隊から暴行を受け、怪我を負ったこともある。また、世界連邦運動推進団体・世界連邦日本国会委員会第6代事務総長を務めた。議員末期は社会党を除名され、1980年の衆議院選挙(無所属で立候補)で落選し、1983年参議院議員通常選挙でMPD・平和と民主運動(比例区)から立候補・落選以降は政界を引退し、仙台市内で労政事務所を開いていたほか、平和運動を担い、市内で集会や公開講座などを開いていた。また、中央通りでの「辻説法」は、政界引退後のライフワークとしていた。 社会党では派閥につくことはなかったが、江田三郎を偲ぶ本が出版されたときは、親交があったのか文章を寄せている。このことから思想的には右派に属していた。国会議員に就任していれば、引退後いわば「自動的」に授与される叙勲については、社会党議員でも授与された議員が多い中、一貫して辞退していた。 冤罪の疑いのある丸正事件の被告で、無期懲役に処せられた李得賢の仮釈放に助力した〔後藤昌次郎著『無実 冤罪事件に関する12章』(1980年、三一書房)、86ページ。〕。 2003年11月22日午前11時33分、肺炎のため、仙台市青葉区の福祉施設で死去、享年97。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西宮弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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