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西尾忠久(にしお ただひさ、1930年6月9日 - 2012年7月28日 )は、日本のコピーライター、評論家。鳥取県鳥取市出身。関西大学経済学部卒。 == 略歴・人物 == 鳥取県に生まれる。関西大学経済学部在学中、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に開高健らと参加。在学中に、三洋電機のハウスオーガン(PR誌)の文筆家として入社。宣伝部に配属されると共に、家電向けPR誌の編集を担当。未開だった日本の産業界・広告界でコピーライティングの実践をおこなうべく、また当時アメリカで主流になりつつあったクリエイティブ手法、ノン・グラフィックを創始したことで知られるDDBのクリエイティブシーンを松本善之助らと、共に日本で初めて紹介した。 1960年代には蟻田善造、梶祐輔らと共に、日本デザインセンターにコピーライティングのチーフとして就任。鈴木康行らの部下を育て上げる。その後は1964年に広告制作プロダクション、アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーを設立し、1969年まで同社社長を務める。また1970年代頃までは、アメリカならびに諸外国のクリエイティブシーンやそれに携わる人物を紹介する一方で、以降はモノに関する書籍を多数執筆している。 日本の広告史に大きな貢献を果たしたことから、2003年に東京コピーライターズクラブの名誉殿堂入りを果たすと共に、アド・エンジニアーズ社顧問の傍ら、また多摩美術大学で講師として、DDBなどの海外広告代理店のクリエイティヴから学んだ、広告コンセプトについての概論を40年近くにわたって、講義を担当した。 その傍ら、池波正太郎の時代小説鬼平犯科帳をこよなく愛し、鬼平に登場する史実について、寛政重修諸家譜や当時の切絵図等の膨大な資料を逐一調べ直した。鬼平関係の著書も晩年は多い。 2012年7月28日、食道がんにより死去。82歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西尾忠久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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