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西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院。山号は阿蘇山。古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつである。 本堂は2001年に火災で焼失し礎石のみ残るが、山門をくぐり石段を登った本堂跡には阿蘇檜や公孫樹の古木が見られる。周辺には僧坊跡が点在し、多くの文化財が保管されている。 ==歴史== 開基には二説ある。寺院が採る726年(神亀3年)説は、天竺毘舎衛国から渡来した僧・最栄が聖武天皇の勅願を受け、阿蘇山上に上り阿蘇明神・建磐龍命(たていわたつのみこと)を感得したとするものである。1144年(天養元年)説は、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て、阿蘇山上に上ったとする説である〔慈恵大師良源は985年に没しているので、最栄が直弟子とすれば年代が合わない。〕。どちらの説にも共通するのは、阿蘇山の火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置して庵(山上本堂)を開き、絶えず法華経を読誦したため「最栄読師(さいえいとくし)」と呼ばれたとするものである。 阿蘇山上に最栄が庵を開いてから、多くの修行僧、修験者が阿蘇山上に集まった。それらの人々は現在の旧阿蘇山スキー場一帯の牧野に当たる地に坊舎を建て、厳しい環境の中で修行に励んだ。その数は三十六坊五十二庵と言われる。西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称である〔。 しかしこの本堂や古坊中は、天正年間(1573年 – 1592年)に島津と大友の戦乱時に軍勢によって焼き払われてしまい、豊臣秀吉の九州統一時には宗徒や行者なども寺を去ったと伝わる。これを再興させたのが、肥後に入部した加藤清正だった。各地に散った僧侶たちを呼び戻し、山上本堂を修復するとともに麓の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊を復興させた。この黒川の坊は「麓(ふもと)坊中」〔と呼ばれ、地名も「坊中」と改められた。これに対応して、阿蘇山上の坊舎跡は「古坊中」と名称が改められた。さらに寺領も附されるなど、熊本藩の庇護は細川家時代になっても続いた。この再興には長善坊契雅という法師の尽力が功を奏したとも言われる〔。江戸時代には「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験が行われたり「牛王法印」の札販売などで賑わった。 明治政府が発した神仏分離令によって、西巌殿寺は廃寺が決まり、ほとんどの僧侶は還俗した。しかし1871年(明治4年)に山上本堂を麓坊中のひとつ学頭坊に移し〔〔、1874年(明治7年)には学頭坊を西巌殿寺(麓本堂)とすることで法灯は継承された。1890年(明治23年)には古跡保存のために山上本堂(奥の院)が再建された。2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失する事件が起きたが、僧坊などに保存された貴重な文化財とともに信仰を継承している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西巌殿寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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