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西川ヒノデ・サクラは、昭和期に活躍した漫才コンビ・音楽ショウ・コミックショウ。活動が長期に亙り、時代によって参加人員やグループ名称が大きく変動している。 1941年4月に西川ヒノデが、初代西川サクラと組んだ『ヒノデ・サクラショウ』が最初で、バイオリンを使った時事漫才や音楽ショウで大いに売れた。当初は吉本興業所属でのちに新興キネマ新興演芸部に所属。戦後永らく千土地興行所属だったが、後吉本に移り旧うめだ花月にも出演した。後にグループは理由は不明だが自然消滅、末期は新世界新花月にヒノデが一人で出ていた。一説にはヒノデの妻が新世界で美容院をやっていてそちらが儲かった為ともいわれる。代々サクラに関しては不明な点が多い。 == メンバー == *西川ヒノデ(本名:西川英一郎、1909年 - ?)、洋服、タキシードに蝶ネクタイが特徴。 :奈良県吉野郡出身。神長瞭月らのバイオリン演歌に憧れ、師匠なしで1922年から旅回り一座に加わる。長じて『アサヒ・ヒノデ』名でコンビ初結成、のちにミスワカバと結婚し『ヒノデ・ワカバ』を結成することを吉本に報告も反対され、1941年4月よりミスワカバを西川サクラと名乗らせ正式にコンビを組む、のちに師と仰いだミスワカナ・玉松一郎の新興キネマ新興演芸部に移籍、没後2代目サクラと組む。 :その後、『ヒノデ・サクラショウ』と称したが、初代サクラが没した1947年以降、映画俳優も兼業して183本に出演。 :『西川ヒノデショウ(カルテット)』の一員だった浪曲師吉田駒千代と1956年に結婚、2代目(3代目)サクラを名乗らせ夫婦コンビ『西川ヒノデ・サクラ』(第二期)で数年間活動。 :2代目サクラとの離婚後、弟子等が次々参加して『西川ヒノデショウ』(第二期)を拡大、賑やかになったが、1977年に弟子の西川チェリーに3代目サクラを襲名させ、『西川ヒノデ・サクラ』(第三期)を復活させた。 :実弟で弟子の西川ヒデ坊は、後の『花園ベティ・江美領一』の江美領一。 *初代西川サクラ(? - 1947年) :元杉原政子といった。芸が認められ、ミスワカナの妹分になりミスワカバを名乗った。浅田家寿郎らとのコンビを経て、ヒノデの妻となり1914年4月より西川サクラの名でコンビを組む。戦時中は敵性語の使用禁止で玉松ワカバと名乗ることもあった。非常に子供っぽく幼く見え、よくからかわれたという。ある日慰問先で軍人からこんな危ないところ君みたいな幼い娘が来るところじゃないよと冗談を言われた。 *2代目西川サクラ :元丘みつ子といった〔吉田留三郎の『かみがた芸能 漫才太平記』や山川静夫『上方芸人ばなし』によると2代目サクラを丘みつ子が名乗ったとしている。〕。 *2代目(3代目?)西川サクラ(本名:木下恒子、1927年12月21日 - 1989年5月29日)、和服。 :元浪曲師の吉田駒千代。『西川ヒノデショウ(カルテット)』に参加し、間もなくヒノデと結婚、夫婦コンビ『ヒノデ・サクラ』で数年活動したが、離婚後に自らの歌謡浪曲ショウ『フラワーショウ』を立ち上げ、華ぼたんの名で大看板に君臨した。 *3代目西川サクラ(本名:嘉納陽子、1937年 - ?)、和服。 :和歌山県伊都郡出身。1945年に浪曲師岡本円造門下で岡本京子を名乗り、翌年8歳で富貴席で初舞台、その後一条美雪と改名、1973年ヒノデ門下で西川チェリーと改名、1977年1月にトップホットシアターで3代目サクラを襲名。 :1981年に弟の西川ヒデキと『西川サクラ・ヒデキ』を結成。1987年に『椿ようこ・けんじ』に改名。2003年頃まで舞台に出る。 *4代目西川サクラ (本名:北沢喜久子、1945年11月23日 - ) :大阪府出身。ヒノデ門下の子役で西川ひかるを名乗る。高卒後銀行に就職したものの、半年で辞めてヒノデショウに戻り、『コミックトリオ』を経て、夢乃タンゴと音曲漫才を組んだ。 :その後は松竹新喜劇と吉本新喜劇の双方に出演。『お笑いオンステージ』(NHK)のレギュラーで全国区になり、一時4代目西川サクラを襲名。コメディエンヌとして長く活躍していたが2001年療養休業、現在は復帰している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西川ヒノデ・サクラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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