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西川 周作(にしかわ しゅうさく、1986年6月18日 - )は、大分県宇佐市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属。ポジションはゴールキーパー。日本代表。 == 来歴 == U-15から大分トリニータの下部組織で育ち、頭角を現す。 大分U-18在籍時の2004年にはトップチームに2種登録選手として選手登録され、リーグ戦1試合でベンチ入りした。翌2005年からは大分のトップに正式昇格。当初は岡中勇人と江角浩司の控えだったが、ワールドユースから帰国直後の7月12日に対横浜F・マリノス戦で初先発を果たすと、以降1試合を除いて全試合に出場。高卒1年目から正GKの座を奪取した。 2006年11月18日の対ヴァンフォーレ甲府戦で、左ひざ靭帯損傷で全治3ヶ月の重傷を負い、残りのシーズンを棒に振る。翌2007年3月10日の対ジュビロ磐田戦で復帰したが、その後も細かい負傷での離脱が目立ち、この時期はベテランの下川誠吾と激しいポジション争いを繰り広げていた。 2008年7月20日のジュビロ磐田戦の後半44分にボールをグラウンドに叩きつけて審判の判定に異議を示したことでイエローカードを受けたが、同日、自身のブログにて「わざとイエローカードをもらいました」と、五輪代表で不在となる翌節に累積警告を消化する意図で故意に反則を犯したことを示唆し、物議を醸した。また、五輪後の9月13日に行われた対浦和レッズ戦で負傷。残りのシーズンを棒に振り、またしても長期離脱となった。 2009年はレギュラー定着後初めて怪我なくシーズンを過ごし、自身初のリーグ全試合フル出場も達成した。しかし、この年の大分は14連敗を喫するなど大不振に陥り、西川の奮戦も実らずJ2降格が決定。更にシーズン終盤には、巨額の債務超過をはじめとする深刻な経営危機が発覚し、西川をはじめとする主力選手を引き留めることは財政面で不可能となった。同年オフ、いくつかのオファーの中から、サンフレッチェ広島へ移籍金7000万円〔2009年12月31日付 中国新聞 日本代表GK西川の獲得発表 3年契約、大分から移籍〕 で完全移籍。背番号はルーキー時代以来となる「21」に決まった。 2010年は広島でレギュラーとして自身2年連続となるリーグ戦全試合に出場。 下田崇の引退により、2011年から再び背番号「1」をつけることになった。2012年は4年連続となるリーグ戦全試合出場を果たし広島のリーグ優勝に大きく貢献した。同年、自身初のJリーグベストイレブンに選出された。 2013年はリーグ戦33試合に出場し、リーグ最少の29失点とクラブの連覇に大きく貢献した。天皇杯準決勝のFC東京とのPK戦では両チーム3人蹴り終わり1-3と絶体絶命の中、連続で相手のPKをセーブし、自身もPKを決めて大逆転でチームを決勝へと導いた〔西川が執念の好セーブ連発!広島がPK戦を制し決勝進出 〕。 2014年、浦和レッズへ完全移籍した〔西川周作選手 完全移籍加入のお知らせ 浦和レッズ公式HP 2014年1月5日〕。背番号は2010年以来となる「21」に決まった。入団後はすぐに正GKの座を確保すると、7月にはJリーグ記録を塗り替える7試合連続無失点を達成し、前年まで不安定だったレッズの守備を立て直す原動力となった。同月、J1の月間MVPに選ばれた。また、GKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新した。同年12月9日、初のJリーグフェアプレー個人賞、3年連続のJリーグベストイレブンに選ばれた。2015年から背番号「1」をつけることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西川周作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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