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西川 秋次(にしかわ あきじ、1881年12月2日 - 1963年9月13日)は豊田佐吉の片腕として活躍したトヨタ(豊田)初期の大番頭である。秋次は失意の豊田佐吉の渡米にひとり同行し、アメリカ滞在を支えた。 秋次は佐吉の夢であった海外への進出に大きな働きをした。中国・上海に工場設立後は佐吉に代わり事実上の責任者として豊田紡織廠(とよだぼうしょくしょう)の経営に携わった。佐吉没後も、中国に留まり、佐吉の夢の実現に努力した。 また、秋次は豊田喜一郎が自動車への進出を決めた際には、全面的に中国から支援することを申し出た。1945年(昭和20年)の終戦の後も国民政府の要請で中国に残り、戦後の復興に尽力する。晩年、西秋奨学会を創設した。 ==経歴・人物== ===生い立ち=== 〔西川田津「西川秋次の思い出」〕西川秋次は1881年(明治14年)12月2日に、父西川重吉、母すみの次男として愛知県渥美郡二川町三ツ家で生まれた。西川家は父の重吉が家業として織布業を始めた。彼が生まれた三ツ家はかつて家が三軒だけあったことから名付けられたという話が残る。その様に、あまり大きな集落ではなかった。現在は豊橋市二川町となっている。秋次は子供の頃から勉強が良くでき、この近隣では神童と呼ばれた。また、彼は色白の大人しい子供であった。高等小学校を卒業する時、親に負担を掛けないようにと、官費で行くことができる愛知県第一師範学校を選択した。 秋次が入学した1900年(明治33年)には愛知県第一師範学校は名古屋市東区東芳野町にあった。西川家は佐吉の妻浅子とは秋次の兄米太郎を通じて遠い縁戚関係にあった。そのため、秋次は時々佐吉夫婦の自宅兼工場を訪ねた。その折、佐吉から「俺のところで働かないか」という話があった。その当時、師範学校は卒業すれば若くして校長になることが約束されているエリートであった。 〔宮地治夫「小説 西川秋次の生涯」 財団法人西秋奨学会〕秋次は佐吉の魅力に惹かれたのか、佐吉のこの誘いに乗るのである。官費の師範学校は最低2年間の教職が義務付けられていた。これを終えて、佐吉の元へ行くと、「もう少し勉強するように」と言われた。彼が進学したのは東京蔵前にあった東京高等工業学校(現:東京工業大学)であった。佐吉にとっての弱点の一つは学問がなかったことである。これからの織機の発明と企業経営には秋次の能力が必要であったのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西川秋次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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