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西村 伊作(にしむら いさく、1884年9月6日 - 1963年2月11日)は、日本の教育者。文化学院の創立者としても知られる。大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。 == 来歴 == === 誕生から青年期 === 和歌山県新宮市出身。豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生。弟に大石眞子(次男)、大石七分(三男)がおり、三兄弟の名は敬虔なクリスチャンであった父親が、聖書に登場するイサク(伊作)、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)にちなんで名付けた(伊作自身は生涯無宗教であった)。 母方の西村家は、奈良県下北山村(隣接の和歌山県北山村も含む?)一帯の山林王で〔、本家に跡継ぎが途絶えたため、祖母もんによって1887年に4歳の伊作が西村家の当主に、父親の余平がその後見人に指名された〔葛井義憲、名古屋学院大学〕。余平一家は下北山村の西村家で暮らし始めたが、余平の西洋かぶれの暮らしなどから祖母と合わず、後見人を取り消されたため、再び新宮に戻った。父親は新宮教会を作って布教活動を行なうとともに、子供たちのために幼稚園も付設し〔、暮らしの洋風化も精力的に推し進めた〔松岡正剛の千夜千冊、2008年01月23日〕。1889年に新宮が洪水に見舞われ、教会も幼稚園も被害を受けたため、一家は愛知県熱田町に拠点を移した〔。熱田神宮近くに「キリスト教講義所」の看板を掲げて伝道活動を続けながら、亜炭採掘を生業とした〔。伊作は洋服姿で尋常小学校へ通わされ〔『考える人』編集長河野通和、『考える人』メールマガジン243号、新潮社〕、目立つ格好からよく苛められた〔。 一家は名古屋市に引っ越し、伊作も転校した。1891年10月28日早朝、南武平町に新設されたばかりの名古屋英和学校(現・名古屋学院)のチャペルに家族で礼拝に訪れたその折に〔濃尾地震が発生し、両親が崩れた教会の煉瓦の煙突の下敷きになって即死、当時7歳の伊作は重傷を負うも、生還した。。伊作ら子供たちは祖母もんに引き取られ、もんを親権者に伊作は西村家の戸主となり、莫大な財産を相続した〔。11歳ころに、父の弟である大石誠之助がアメリカから帰国し新宮で医院を開業したのを機に、叔父の元に身を寄せ、新宮町高等小学校へ通う〔影山昇、成城大学〕。 1898年、遠方からの入学者が多かった広島市の明道中学(1892年-1923年、他の出身者には黒島亀人、石田一松ら)に学ぶ。広島には父の妹・井出睦世が牧師の夫ともに住んでいたので、そこから通った。日露戦争に対して非戦論を唱え社会主義思想を持ちビラ配りをした。1903年に中学を卒業したあとは、実家に戻り、家業である山林管理と材木商を継ぐ。伊作は、少年のころから洋風で端正な出で立ちから「異人さんのよう」と言われていた。青年期から独学で絵を描き、陶器をつくり、欧米のモダンリビングを取入れた自邸を設計して住み、またアメリカ留学を終えて帰国した医師である叔父大石誠之助と本格的に生活の改善、欧米化を推進した。1904年に誠之助が開いた新宮初の洋食屋「太平洋食堂」(1年ほどで閉店〔)も手伝った。 大石誠之助の影響を受けて社会主義思想に共鳴し、幸徳秋水や堺利彦ら平民社に拠る社会主義者と交流した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西村伊作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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