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西澤 暲(にしざわ あきら、1934年6月30日 - )は、兵庫県神戸市出身のフリーアナウンサー。2014年3月の時点では、日本における現役最高齢のスポーツアナウンサーである〔戸倉の公式ブログ『メディアウォッチャーのぶlog』2012年10月22日付記事「'64 東京オリンピック民間放送代表アナウンサー西澤暲氏、いまも現役!!」 〕。 == 人物・経歴 == 兵庫県立長田高等学校への在学中には、軟式野球部のキャプテンを務めるかたわら、文化祭で総合司会を務めた。卒業後に進学した関西学院大学では、学内の放送研究会(通称「KGB」、現在の総部放送局)に所属。学生タレントとして、ラジオで多数のCMや番組に出演した。大学時代の同期生に、藤岡琢也などがいる。 大学卒業後の1958年に、大阪放送(OBC、現在のラジオ大阪)へアナウンサー第1期生として採用。入社直後から、主にスポーツ中継を担当した。当時同局で放送していたプロ野球ナイトゲーム中継では、実況アナウンサーの隣に両チームのファンを座らせたうえで、アナウンサーが解説者の役割を兼ねながら実況していたという。また、同年7月まで阪神甲子園球場の本塁側グラウンド下に存在した「葦簀張りの放送席」で、最後に実況を経験している〔『阪神戦・実況32年。』「はじめに」より。甲子園球場では、1958年夏の第40回全国高等学校野球選手権大会(板東英二が徳島商業高校のエースとして大会記録の1大会通算83奪三振を樹立した大会)を前に、プロ野球シーズン中の突貫工事によって現在の場所(バックネット裏の内野スタンド中段)に放送席を移した。〕。 1960年代の初頭(詳細不詳)に、OBCから中部日本放送(CBC)へ移籍。OBC時代と同じく、プロ野球中継などのスポーツ番組で活躍した。1964年の東京オリンピックで、民放ラジオ局アナウンサーの代表として、陸上競技やボート競技などのラジオ中継で実況を担当。陸上競技の中継では、10時間連続で実況を務めた。 やがて、CBCを退社すると、フリーアナウンサーとして地元の関西地方を中心に活動。1970年から2001年までは、サンテレビのプロ野球中継『サンテレビボックス席』で、32年間にわたって阪神タイガースの公式戦を中心に500以上の試合の実況を担当した。 アメリカンフットボールの中継・関連番組にも、武田建(母校のチームである関西学院大学ファイターズの元監督)とのコンビを中心に、実況担当として長らく活躍している。かつては、サンテレビで「カレッジフットボールin USA」や関西の大学カレッジフットボウルの実況などを担当。1990年代からは、CS放送のGAORAにおいて、「キャスター」という肩書でNFL中継の実況を務めている。ちなみに、NFLのチームでは、アトランタ・ファルコンズの大ファンであることを公言。スポーツアナウンサーとして中継で実況した種目は、前述の種目にバレーボールなど35種目前後に達する。 大学およびアナウンサーとしての後輩に当たる戸倉信吉(朝日放送でアナウンサー・テレビ制作部プロデューサー・デジタルメディア局長を歴任)の母方の叔父で、2014年に80歳を迎えた。現在でも、フリーランスのスポーツアナウンサーとして、前述のNFLや全国高等学校野球選手権和歌山大会中継 (テレビ和歌山)の実況を担当している。また、KGB懇親サロンの会長・サン放送アカデミーの講師・一般社団法人リコネクトテレビジョンの顧問〔一般社団法人リコネクトテレビジョン 団体概要 〕を務めるかたわら、「スポーツキャスター」という肩書で講演活動も展開。今後の目標として、自身2度目の東京オリンピックになる2020年夏季大会での実況を挙げている〔前掲書「あとがき」〕。 2014年2月には、「元『サンテレビボックス席』アナウンサー」という肩書で、講談社から自身初の著書「阪神戦、実況32年。」を刊行。江本孟紀の阪神退団・現役引退(1981年)のきっかけになったとされる「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言を本人から直接聞いていたことを明かした〔前掲書第1章第1節「『ベンチがアホやから』発言の真実。江本孟紀を引退させたのは僕!?」(pp.10-14)〕ほか、『サンテレビボックス席』の担当時代に交流があった阪神OBの解説者・主力選手のエピソードや、実況アナウンサーとしての経験などを綴っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西澤あきら」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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