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西表海底火山[いりおもて かいていかざん]
西表海底火山(いりおもて かいていかざん)〔『沖繩大百科事典 上巻』「海底火山」(1983年)p.664〕は、西表島の北北東約20kmの海底に位置する火山で、気象庁は西表島北北東海底火山(いりおもてじま ほくほくとう かいていかざん、英称:''Submarine Volcano NNE of Iriomotejima'')の名称を用いている〔『日本活火山総覧 第2版』(1996年)p.423〕。 == 突然の噴火 == 1924年(大正13年)10月31日、大阪商船の宮古丸は台湾・基隆港から那覇へ向かう途中の西表島北沖で噴火を目撃した。当時の宮古丸船長の加納直市が記録した報告書には、午前9時35分に鳩間水道(西表島と鳩間島間の海域)を石垣島方面へ通過中、前方約10kmで海面が変色していた。西表島の赤離島から沖に亘って伸びる大量の軽石が海中から湧き出し、海底火山による噴火と断定した。このまま石垣島へ向かう真東に航行するのは危険と判断した船長は北北東へ針路を変更したが、爆発の勢いは増し、至る場所で濁水と軽石が噴出した。午前11時5分に天候悪化による視界不良により、出航した西表島の仲良港へ引き返し、午後1時に無事帰港した。〔加藤(2009年)pp.14 - 16〕 帰港直後、船長は沖縄県庁と付近の測候所、大阪商船へ電報により状況を報告し、石垣島の地方新聞社は即日に号外を発行した〔加藤(2009年)p.22〕。その後の詳細記事には、ユタが「噴火翌日に津波が襲いかかる」と予言し、噂が石垣島全島に急速に広まり、島民は大混乱に陥ったとされる。高台の小学校に避難し恐怖の余り一睡も出来なかった人もいれば、蝋燭を求め商店に人々が殺到、はたまた避難して不在になった家屋に侵入して窃盗を行う者もいたという。過去に先島諸島で、1771年に発生した大津波で多数の死者を出した背景もあり、こうした騒動に発展した一因と考えられる。〔加藤(2009年)pp.28 - 30〕 噴火して間もなく、噴火場所に近い西表島の海岸や港は軽石で覆われ、約3ヶ月はこの状態が続き、船は身動き出来なかったという〔加藤(1995年)p.132〕。噴火後約1ヶ月で、八重山諸島の海岸は軽石で埋めつくされ、中には大人2,3人乗れて浮く程の軽石もあり、一畳分の大きさであったとされる〔加藤(2009年)pp.32 - 35〕。軽石の総噴出量は体積にして約1km³と推測される〔加藤(2009年)p.36〕。また噴火して約3週間後、沖縄諸島各地の海岸にも軽石が打ち上げられ〔加藤(2009年)p.39〕、さらに黒潮と対馬海流によって日本各地へ軽石は運ばれ、噴火約1年後に北海道の礼文島まで漂着した軽石もあった〔加藤(1995年)p.133〕。当時は日本近海における海流方向の詳細は不明であったが、これら軽石の漂流により海流研究における大きな手掛かりとなった〔加藤(2009年)p.41〕。 この軽石は二酸化ケイ素(SiO2)の含有率が73%で流紋岩質の岩石と判明したが、酸化カリウム(K2O)の量が約1%と非常に少ない〔加藤(2009年)p.89〕。この海底火山の正確な位置は不明で〔加藤(2009年)p.49〕、現在でも海洋調査船を用いて海底調査を行っている〔加藤(2009年)pp.51 - 54〕。当火山は九州の阿蘇山・桜島からトカラ列島を経て南端の硫黄鳥島までを含む霧島火山帯の南方延長に当たるかは定かでない〔神谷(2007年)p.122〕。しかしその火山帯以南の海底に西表海底火山以外にも他の海底火山が存在している可能性が高く、それらは「琉球海底火山帯」と命名されている〔『沖繩大百科事典 下巻』「琉球海底火山帯」(1983年)p.857〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西表海底火山」の詳細全文を読む
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