翻訳と辞書
Words near each other
・ 西遊馬駅
・ 西道仙
・ 西道庵
・ 西道野辺
・ 西達彦
・ 西遞村
・ 西遠女子学園
・ 西遠寺彷徨
・ 西遠軌道
・ 西遠鉄道
西遼
・ 西遼河
・ 西邑二三子
・ 西邑昌一
・ 西邑楽高校
・ 西邑楽高等学校
・ 西邑理香
・ 西邑理香のおしゃべりサラダ
・ 西邑由記子
・ 西邑貞


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

西遼 : ウィキペディア日本語版
西遼[せいりょう]

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、に滅ぼされたの皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。
中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている〔藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁〕。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」〔「強力な契丹」〔杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁〕の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない〔''The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World'', 216-217頁〕。代に成立した類書三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている〔伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁〕。
西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」〔島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁〕、「ハンの中のハン」〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、331頁〕〔バルトリド『中央アジア史概説』、62頁〕、「大いなるハン」〔、「勇敢なハン」〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁〕などの意味)の称号を名乗り〔〔〔小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁〕、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ〔。
首都はグズオルド〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁〕(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド〔宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁〕、フスオルド〔。契丹語で「堅固なオルド」の意〔。
== 歴史 ==

西遼は自国の記録を残しておらず、これらの情報は中国史料とイスラーム世界の史料によるものである〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「西遼」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.