|
西部 洋平(にしべ ようへい、1980年12月1日 - )は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手。Jリーグ・清水エスパルス所属。ポジションはゴールキーパー。 == 来歴 == 本格的にサッカーを始めたのは高校生からという、現代プロサッカー選手としては珍しいスタートの選手。それまでは剣道、野球、バスケットボールなど様々なスポーツを経験していた。中学からスポーツ推薦で帝京第三高等学校へ進学。ゴールキーパーとしてのテストで本人が「キーパーテストは全然ダメだった」というほどの出来だったが、「運動神経があるから育ててみれば面白いんじゃないか」と理由で合格した。持ち前の運動能力、身体能力の高さを発揮し、2年生になるとレギュラーの座を勝ち取った。サッカー経験の乏しさから来るミスも多々あったが、それ以上に西部に救われた試合の方が多かった。しかし3年生の県大会決勝では、ペナルティエリアの外に飛び出した所をかわされ、それが決勝点となり「西部に始まり、西部で終わった3年間だったな」と監督から言われたとのこと。 1999年に浦和レッドダイヤモンズに入団。当時の触れ込みは「楢崎正剛より潜在能力は高い。だから西部を獲得した事で楢崎は必要ない」とのこと。浦和がJ2へ降格した2000年の終盤、総監督に就任した横山謙三に抜擢され田北雄気・土田尚史の両ベテランを抑えて正GKの座を掴み、J1復帰に貢献。しかし、2002年にハンス・オフトが監督に就任すると開幕直後こそは正GKとしてゴールマウスに立っていたが、不安定なプレーを露呈した事でシーズン序盤に当時2年目の山岸範宏に正GKの座を奪われ出場機会が激減、2003年には都築龍太が加入した事で第3GKとなってベンチ入りすらも出来なくなり、シーズン途中の6月にGKに負傷者が続出していた鹿島アントラーズに期限付き移籍するも曽ヶ端準の前に出場機会はなかった。 2004年からは清水エスパルスに期限付き移籍した。清水ではそれまで正GKだったアテネ五輪代表の黒河貴矢を押しのける形で開幕からスタメンで出場。身体能力の高さの一方で、安定感の希薄さも伺えるそのスタイルに対して、当時の清水サポーターからは西部が出場している試合で『黒河』コールを起こされるなど、正GK変更に難色を示されたこともあった。しかし、持ち前の瞬発力・身体能力の高さを試合の中で披露し続けるうちに徐々に清水サポーターの信頼を勝ち取っていった。以降、清水の守護神としてゴールマウスに君臨。2006年より完全移籍となった。 2007年には日本代表候補合宿選手に選出され、アジアカップ予選の際には予備登録として日本代表にも選出されたが、まだ正式な日本代表としてのメンバー入りは果たしていない。 2008年の中盤戦以降はチームの下位低迷と自身の不調から、後輩である北京オリンピック代表の山本海人にポジションを奪われ出場機会が減っていった。2009年は山本の故障もあり開幕からスタメン出場を果たしたものの、中盤戦からは再び山本にポジションを奪われた。終盤戦にチームの失速と山本の不調もあって再びポジションを取り戻したものの、移籍後最低の14試合出場にとどまった。一方、天皇杯は3試合に出場しいずれも無失点でチームの勝利に貢献した。西部の活躍もあり、チームはベスト4に進出した。 2010年は山本の怪我もあったが開幕からレギュラーを務めて32試合に出場したが、シーズン終了後にチームから契約満了に伴い来期の契約を更新しないと発表された〔西部洋平選手の契約満了に伴う来季契約非更新について 清水エスパルスオフィシャルウェブサイト、2010.12.6〕。 2011年はJ2へ降格した湘南ベルマーレへ完全移籍した〔清水エスパルス 西部洋平選手 移籍加入のお知らせ 湘南ベルマーレオフィシャルウェブサイト、2011.1.5〕。正GKとして全38試合にフル出場したが、チームは14位に低迷し同年限りで退団。 2012年に川崎フロンターレへ移籍。 2015年12月16日、清水エスパルスへの完全移籍を発表した〔西部洋平選手(川崎フロンターレ) 完全移籍にて加入決定のお知らせ 清水エスパルス公式サイト 2015年12月16日〕〔西部洋平選手移籍のお知らせ 川崎フロンターレ公式サイト 2015年12月16日〕。6年ぶりに古巣へ復帰することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西部洋平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|