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西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。父は戸塚忠春という。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。 ==生涯== 三河西郷氏は、。三河西郷氏は現在の豊橋市西郷校区辺りに本拠を置いていた。2代征夷大将軍徳川秀忠生母西郷局(名は愛)を出した外祖父・西郷正勝の頃には、三河での影響力は今川義元の傘下で命脈を保っている程度にしか過ぎなかった。母は今川氏の命であろうか、遠江国の住人戸塚忠春に嫁している。 成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。そこを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。義勝との間に一男一女をもうけている。一説には義勝が最初の夫であるとも言われる。 元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚・野田菅沼氏に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。 やがて、母の弟・西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだ。しかし、天正17年(1589年)に38歳で死去した。死後の寛永5年(1628年)になって、正一位が贈られた。 西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。なお、不確定ではあるが西郷局の死因は、罪が不確定のまま殺害された家康の正室築山殿に仕えていた侍女の殺害、毒殺という説もある。 秀忠の異父兄に当たる彼女の残した男子は徳川頼宣付けになるなど、西郷一族は秀忠の治世で優遇される。しかし、秀忠が家康ほど長命でなかったため、その栄華は極めて短かった。 叔父・清員の家系が、安房国東条藩の大名に取り立てられたのが最高である。ところが時代が流れて綱吉の頃には勘気を被って大名の座から転落、5000石の旗本となっている。 家宣の頃に5000石を復権し、1万石に回復するが、その5000石もいとも簡単に失い、元の5000石に戻ったといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西郷局」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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