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見性(けんしょう)とは、仏教の禅において、人間に本来そなわる、本性を徹見すること。禅の悟りの1つ。見道位とも。 これを通して発菩提心(発心)を起すとされる。その次の修行過程は修道。 禅宗では、見性によって一時的にでも万能感を得たと考える修行者に対しては、それを魔境の一種の偽涅槃であるとして、そうした状態に執着することなく、逆に一蹴することを修行の注意点として説く。坐禅を始めてから数年の段階に多くみられる。 == 概要 == 性を、仏性、法性、心性ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、明心見性などと使用する。性は本来、煩悩に汚染されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す。禅における悟りであり、臨済禅では今日でも見性を目指して坐禅修行に励む。 中国禅宗では、特に六祖慧能がこれを重んじており、『六祖壇経』でも次のように説かれている。 「一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く般若の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん」 この記述の意味は、「仏道の修法修行体系は壮大無比であり、むしろ如何なる教説も取捨することなく見性し、以って成道したとする方が正しいほどであるが(見性成仏)」、見性を得ているかどうかは次の修道の初出の果報を体得することによってしか証し得ないものであり、「不惜身命を誓って甚深法界及び般若三昧に入る覚悟のある者は、教行を修めるべく『金剛般若経』を持誦すべし」と言うものである。〔『金剛般若経』は甚深法界・般若三昧に入るまでを説く経典である。〕 六祖慧能は甚深法界及び般若三昧に入ることを勧めているわけではなく、『六祖壇経』では次のようにも説いている。 「若し仏に帰依すと言わば、仏は何処にか在る。……… 各々自ら観察して、錯(あやま)って心を用うること莫かれ。経文は分明に自らの仏に帰依すと言って、他仏に帰依すと言わず」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「見性」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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