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見瀬 辰平(みせ たつへい、1880年3月16日 - 1924年8月3日)は真珠の養殖技術者、真円真珠発明者。 三重県度会郡神原村大字山原で森本岡平の4男として生まれる。11歳の時、志摩郡的矢村渡鹿野島(現志摩市)の見瀬弥助の養子となった。始めは船大工の仕事をしていたが、養父が出稼ぎ先のオーストラリアで真珠が有望な産業であったと語り、以後真珠に興味を持つようになった〔磯部郷土史刊行会 編(1963):272ページ〕。 真円真珠の研究結果がはじめて公表されたのは見瀬による1907年(明治40年)の特許12598号によってであった。 1902年(明治35年)5月、神明村(現・志摩市)から真珠貝15,000個を的矢湾に移植し円形真珠形成の研究を開始。 1904年(明治37年)、養殖に成功した円形真珠を携えて伊谷以知二郎、岸上謙吉に示している(1923年(大正12年)、養殖真珠誌の稿による)。 == 真珠に関する特許 == 1907年(明治40年)、真円真珠の特許を出願(特許38318号)するが西川藤吉の特許に抵触するとして紛争となる。そのため、まず器具の特許をとる事にした。これが前述の特許12598号である。この紛争は、先に発明した西川藤吉か先に出願した見瀬辰平か、という争いで、先発明主義か先願主義かいう意味では、日本で初の争いであった。 1908年(明治41年)9月2日、調停の末、西川藤吉名で特許を取得した後、特許を共有する契約が成立する。見瀬には不利な決着であった。このことについて見瀬は自身の手記で「西川藤吉は病気により死期が迫っており早期に解決しなければいけない。」「真珠養殖の発展のために紛争を長引かせてはいけない」と書いていて、見瀬の人間性をかいま見ることができる。「人物叢書 御木本幸吉」を書いた大林日出雄は「研究者・発明家としても、事業家としても、はがゆいほどの態度」と書いている。 この特許は海外では「Mise-Nishikawa Method」として知られている。 1919年(大正8年)にフランスで「第501447号真珠形成方法」、1920年(大正9年)にアメリカで「第39506号真珠形成方法」の特許を取得している。これらは真珠に関して日本人で初めて外国で取得した特許となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「見瀬辰平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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