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覚園寺(かくおんじ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある真言宗泉涌寺派の仏教寺院である。山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は智海心慧(ちかいしんえ)である。鎌倉幕府執権北条家歴代の尊崇を集めた寺院である。相模国と武蔵国を結ぶ金沢街道から北に入った谷戸の奥に位置し、境内および周辺は自然環境が良好に保全され、都市化が進む以前の鎌倉の面影を最もよく残す寺の1つといわれている〔『鎌倉歴史散策』、p.40〕。境内は国の史跡に指定されている。 == 歴史 == 『吾妻鏡』及び現在の『覚園寺縁起』によれば、鎌倉幕府2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の起源とされる。建保6年(1218年)、薬師如来の眷属である十二神将のうちの「戌神」(伐折羅大将)が北条義時の夢に現れたことが薬師堂建立の端緒であったという。その後9代執権北条貞時の時代に正式の寺院となった。 大倉薬師堂開創の経緯を『吾妻鏡』からまとめると以下のようになる。『覚園寺縁起』は日付などの細部に関して相異する部分もあるが、ほとんど同じである。 *義時が将軍実朝の鶴岡八幡宮参拝に付き従った後、屋敷に戻って寝ていたら夢の中に薬師十二神将の「戌神」が現れた。「戌神」は「今年は無事だったが来年の将軍の参拝のときには供奉するな」という。驚いた義時は薬師十二神将に守ってもらおうと大倉の地に薬師堂を建てる。(吾妻鏡 建保6年(1218年)7月9日条) *運慶に薬師如来像と十二神将を作ってもらい、それを薬師堂に納めて、導師に荘厳房律師退耕行勇を招いて開堂供養を行った。(吾妻鏡 建保6年(1218年)12月2日条) *その翌年、鶴岡八幡宮寺で将軍実朝の右大臣拝賀の式典があった。義時も御剣を持って従ったが、宮寺の楼門で「夢の如くにして白き犬御傍に見ゆるの後、御心神違乱」。ようするに気分が悪くなり立っていられなくなったのか。そこで源仲章に御剣役を代わってもらったところが、代役の源仲章は、実朝ともに公暁に斬り殺されてしまった。義時は戌神が警告したのはこのことか、戌神が助けてくれたのか、と思う。(吾妻鏡 建保7年(1219年)1月27日条、一部は2月8日条から) *事件の事後処理を終えて、義時はお礼のため大倉薬師堂に詣でる。そこで事件のあった頃に、十二神将の中の「戌神」だけが、何故か堂の中にいなかったと聞く。薬師十二神将の「戌神」は、薬師堂を出て、「白き犬」に姿を変えて宮寺の楼門に現れ、義時を災いから護ってくれたのだった。(吾妻鏡 建保7年(1219年)2月8日条) なお、以上はあくまでも『吾妻鏡』『覚園寺縁起』の伝える説であって、源実朝暗殺事件の真相については諸説あるが、当時の史料としては『吾妻鏡』と、あとは慈円の『愚管抄』の記述のみでありそれ以外には無い。『愚管抄』によれば、義時は「心神御違例の事」などにより御劔を源仲章朝臣に譲り退去などしていない。鶴岡八幡宮寺の楼門の前で、御劔を持ったまま雪の中を待たされていたという。『愚管抄』の記述は事件を目撃した参列の公卿からの伝聞。『吾妻鏡』は事件から約80年後に編纂されたものである。 以上のような由緒をもつ大倉薬師堂は、北条家の歴代執権によって尊崇された。『吾妻鏡』寛元元年(1243年)2月2日条によれば、薬師堂は火災に遭うが仏像は運び出せたという。その後、建長2年(1250年)2月8日条には時頼が病の回復を願って参拝しているので、火事からほどなく再建されたと思われる。時頼はその年の12月に安産祈願の為に参拝している。時宗の時代には弘長3年(1263年)3月10日条 に「日来(ひごろ)修造を加え、今日供養を遂げらる」とある。 覚園寺の古文書によれば、その後の永仁4年(1296年)に、9代執権北条貞時は、外敵退散を祈念して、大倉薬師堂を正式の寺に改めたという。この当時、文永8年(1271年)、弘安4年(1281年)の2度の元寇はすでに終わっていたが、3度目の元寇の脅威はまだ去っていなかったのである。覚園寺ではこの永仁4年をもって寺の創建としており、北条貞時を開基(創立者)と見なしている。開山(初代住職)に招かれたのは京都・泉涌寺の法灯を継ぐ智海心慧(ちかいしんえ、?-1306)である。 泉涌寺・覚園寺は近代以降は真言宗寺院となっているが元来は北京系律の本拠地であり、律を中心に天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(律を含めて五宗兼学)の道場であった。仏教の宗派が固定するのは鎌倉時代より後のことであり、この当時の大寺院にはその例が多い。特に泉涌寺系はその傾向が強く、覚園寺も、同じ鎌倉の泉涌寺系浄光明寺もやはり四宗兼学の道場であった。 鎌倉幕府滅亡の年である元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺とした。建武の新政後、南北朝時代に入ると、足利氏も覚園寺を祈願所とし保護した。建武4年(1337年)の火災で仏殿(本堂)が焼失するが、文和3年(1354年)、足利尊氏により再建されている。なお、現存する薬師堂は足利尊氏再興時の部材を残しているが、江戸時代に改築に近い大修理を受けている。 覚園寺に現存する仏像は室町時代の応永年間(15世紀初頭)の銘をもつものが多く、この頃に寺内が整備されたものと思われる。 近世末の文政13年(1830年)の火災で覚園寺は伽藍の大部分を失い、以後、寺運は衰微した。大正12年(1923年)の関東大震災でも大きな損害を受け、以後、1950年頃までは寺内はかなり荒れており、仏像も破損が甚だしかったが、その後徐々に復興した〔岩波写真文庫復刻ワイド版『鎌倉 1950』に、1950年頃の覚園寺の写真が掲載されており、当時は寺内がかなり荒廃していたことが分かる。〕。 なお、覚園寺の入口正面にある愛染堂とそこに祀られる諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺から移されたものである。大楽寺は当初胡桃ヶ谷(くるみがやつ、鎌倉五山の1つである浄妙寺の東の谷)にあり、文保元年(1317年)二階堂行朝が開基となって建てた寺で、後に覚園寺のある薬師堂ヶ谷に移転した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「覚園寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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