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観音寺騒動[かんのんじそうどう] 観音寺騒動(かんのんじそうどう)は、戦国時代の永禄6年(1563年)に、南近江の戦国大名・六角氏の家中で起こったお家騒動。 == 事件の概要 == 六角氏は六角定頼が当主(あるいは陣代)の時代、北近江の戦国大名であった浅井氏を事実上の支配下に置き、さらに室町幕府からも管領代の地位を与えられるなどして全盛期を迎えていた。定頼の死後、後を継いだ六角義賢は、畿内に一大政権を築きつつあった三好長慶と抗争して、中央政界での勢力を拡大しようとしたがこれに失敗。逆に六角氏の畿内における影響力は減退してしまった。そのうえ、定頼の死去を見て服属下にあった浅井氏が自立傾向を見せ始める。 永禄3年(1560年)8月中旬、義賢は大軍を率いて浅井氏を討とうとしたが野良田の戦いで浅井長政に敗れた。近江佐々木氏の家中問題も絡み、義賢の近江における権威は低下した。この前年に家督を子の六角義治に譲っていた義賢は、この敗戦を契機に出家する。また、この頃から義治の婚姻問題などで義賢と義治の対立が深刻化することになる。 跡を継いだ義治であるが、永禄6年(1563年)に六角氏の有力な重臣であった後藤賢豊を観音寺城内において暗殺してしまった。理由は諸説あるが、賢豊は定頼時代からの六角家中における功臣として人望も厚く、隠居した義賢からの信任も厚かった。また、進藤貞治(騒動当時には病没)と共に「六角氏の両藤」と称されるほどの宿老で、奉行人として六角氏の当主代理として政務を執行できる権限を有していたことから、賢豊の権力(及びその背景にある義賢の権力)と若年の当主・義治とが争った末に、当主としての執行権を取り戻すために暗殺したと言われている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「観音寺騒動」の詳細全文を読む
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