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角川大映映画 : ウィキペディア日本語版
角川映画[かどかわえいが]

角川映画(かどかわえいが)は、KADOKAWAないしその前身企業である角川書店ないし角川春樹事務所(1976年設立、1988年角川書店に吸収。1996年設立の同名企業とは別)、角川映画株式会社(2002年設立、2011年角川書店に吸収合併)によって1976年より製作された一連の映画の通称・総称及び映像事業ブランドである。
一般的に「角川映画」という呼称は、角川書店による映画を元にしたメディアミックス展開の一例として捉えられる場合が多い。「角川商法」としてメディアミックスの成功例の代表として取り上げられている。
==概要==

=== 角川春樹時代 ===
1976年、当時角川書店社長だった角川春樹は、自社が発行する書籍(主に角川文庫が中心となった)の売上向上のため、その宣伝として映画を利用することにした。当時、推理作家横溝正史ブームを仕掛けていたため、横溝作品の映画化に関わっていた。最初は1975年ATGの『本陣殺人事件』に宣伝協力費の形で50万円を出資した。ところが次に組んだ松竹の『八つ墓村』が松竹側の都合で製作が延期され、書店で予定していた横溝正史フェアに影響したことから、角川は自ら映画製作を行うことを決意し〔角川2005、pp.137-138。〕、1976年に第1作『犬神家の一族』を公開した。
それまでの映画会社はテレビをライバル視していたことと、あまりに広告料が高いためテレビCMはあまりやらなかった。しかし角川は広告費をつぎ込み、テレビCMなど宣伝をうち、書籍と映画を同時に売り込むことによって相乗効果を狙った結果、成功を収める。映画製作を目的とした(旧)角川春樹事務所も、1976年に設立された。翌1977年の第2作『人間の証明』は日活撮影所で撮影し、配給は東映、興行は東宝洋画系という従来の日本映画界では考えられない組み合わせで映画界に新風を巻き起こした〔キネ旬1993、「角川映画の歩み」、p.58。〕。脇役には主演作が多い三船敏郎鶴田浩二らを起用し、監督へも高額の演出料を払った。テレビCMでは映像と「お父さん怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しにくるよ」、「狼は生きろ、豚は死ね。」、「歴史は、我々に何をさせようというのか?」、「カイカン。」などのキャッチコピーや劇中の台詞が流れ、映画と出版による相乗効果のメディアミックスは角川商法と呼ばれた。横溝に続いて森村誠一大藪春彦半村良赤川次郎らの小説も次々と映画化された。角川文庫には映画割引券をしおりとして封入した〔日本ジャーナリスト会議・出版支部編著『目でみる出版ジャーナリズム小史 増補版』高文研、1985年初版、1989年増補版、p.106〕〔角川2005、p.140。〕〔井筒和幸『ガキ以上、愚連隊未満。』ダイヤモンド社、2010年、p.120〕。
映画音楽や主題歌にも力を入れ〔樋口2004、p.147。〕、1970年代は上記映画のほか、1978年の『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』と大作路線を続けていくが、この1本立て上映の大作路線は、当時は2本立てのプログラムピクチャーを上映していた他社にも影響を与えて、大作ブームを招いた〔関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.410〕〔中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、p.312〕〔樋口尚文『ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画』平凡社新書、2009年、p.319〕。この他、1976年から1980年頃まで、大阪毎日放送制作によりTBS系で放送された「横溝正史シリーズ」や「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマの企画を、一連の角川映画と連動する形で角川春樹事務所が手がけた。
1980年代1980年の『復活の日』を最後に大作一辺倒の路線の撤退を宣言し〔『キネマ旬報』1981年2月下旬号、p.121〕、スター・システムによる2本立て上映のアイドル映画を中心に、プログラムピクチャーを量産するようになる〔樋口2004、pp.228-229。〕〔ひげじい「キネマの天地とハリウッドに見る20世紀の映画事情」『20世紀死語辞典』20世紀死語辞典編集委員会編、太田出版、2000年、p.276〕。製作費に22億円をかけた『復活の日』が〔25~35億円とする資料もある。〕、配給収入24億円の結果に終わって制作費を回収できず、路線変更をせざるを得なかったのである〔角川春樹「夏八木勲の男気 かけがえのない同士」『キネマ旬報』2013年9月上旬号、p.106〕。正月作品の大作『戦国自衛隊』も配収13億円5千万円を挙げながら収支がトントンといった状態であった〔「角川春樹氏特別インタビュー 『戦国』から『大和』へ!!」『ビッグマンスペシャル 戦国自衛隊パーフェクBOOK』世界文化社、2005年、p.15〕。ハイリスクの大作映画に対して『セーラー服と機関銃』(1981年)は製作費1億5000万円と『復活の日』の10分の1の予算ながら興行成績では『復活の日』に匹敵する配給収入23億円を挙げた。映画公開当時、角川書店から出版されていた赤川次郎の本は、文庫が『セーラー服と機関銃』と『血とバラ』、単行本が『さびしがり屋の死体』、『悪妻に捧げるレクイエム』の計4冊しかなく、大規模なブック・フェアは出来なかった。中川右介は、角川映画のビジネスモデルが「文庫本を売るための映画作り」から「専属女優とそのファンのための映画作り」に『セーラー服と機関銃』から移行したと分析している。翌1982年に角川春樹事務所はコンテストで渡辺典子原田知世を発掘。
既に専属女優だった薬師丸ひろ子を含めて彼女たちは角川3人娘と呼ばれた。
1983年の『探偵物語』と『時をかける少女』の2本立ては配給収入28億円に達した。彼女らはテレビに露出することが少なく、テレビに出演しているアイドルが映画に出演するという1970年代以降の形でなく、映画全盛期のスクリーンでしか見られなかったかつての映画スターと同様の存在として、若い観客を映画館へ呼び戻し〔金澤誠「脱スター以降の個性派たち」『<日本製映画>の読み方 1980-1999』武藤起一、森直人、フィルムアート社編集部編集、フィルムアート社、1999年、p.155-156〕〔、自社スターによるプログラムピクチャー路線で角川映画の1980年代前半を牽引した〔。自社雑誌『バラエティ』を1977年に創刊して情報の発信をしていた〔洋泉社2003、p.98。〕。
1983年には、マッドハウスと組んでアニメ映画にも進出〔キネマ旬報特別編集『キネ旬ムック オールタイム・ベスト 映画遺産 アニメーション篇』キネマ旬報社、2010年、pp.84-85〕〔小黒祐一郎アニメ様365日 第350回 角川映画とマッドハウスの時代 」 WEBアニメスタイル 2010年4月19日〕。角川アニメ第1弾の幻魔大戦』は〔、配給収入で10億円以上を記録し〔、同年末の『里見八犬伝』は1984年の配給収入で邦画1位の23億2千万円を計上している。
こうして1970年代末から1980年代半ばの角川映画は、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破るヒットを連発した。角川映画の指揮をとりキャッチコピーも考えていた角川春樹は、山本又一朗らの独立プロデューサーとともに映画界の寵児になり〔斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』朝日新聞出版・朝日新書、2008年、p.10〕、1982年には優秀なプロデューサーに贈られる藤本賞を受賞した。映画宣伝の際は俳優や監督以上に積極的にメディアへ露出し、角川映画は角川春樹の代名詞とも言える存在であった。当初は話題先行と見られて映画評論家からは低かった評価も、1982年の『蒲田行進曲』、1984年の『Wの悲劇』と『麻雀放浪記』が映画賞を受賞し、キネマ旬報ベスト・テンにランクインするなど、内容的な充実も認められるようになった〔〔『キネマ旬報ベスト・テン全史1946-1996』キネマ旬報社、1984年初版、1997年4版、p.212〕〔野村正昭『天と地と創造』角川書店、1990年、p.17〕〔重政隆文『勝手に映画書・考』松本工房、1997年、p.20〕。
日本映画界に定着する一方で、製作から10年目を迎えた1980年代後半以降、角川映画の勢いは失速していった〔磯田勉「タイクーンの夢――角川映画80's」『映画秘宝EX 爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』洋泉社、2012年、p.15〕〔モルモット吉田「角川春樹」『映画秘宝EX 爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』洋泉社、2012年、p.21〕。それには、民放のフジテレビが映画界に本格参入して、角川映画のお株を奪う大量スポットや局を挙げてのメディアミックス戦略を仕掛けたこと〔大高宏雄『興行価値』鹿砦社、1996年、pp.24-25,64〕〔金田信一郎『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡』日経BP社、2006年、p.119〕、また、内部的には1985年に薬師丸ひろ子が角川春樹事務所から独立、翌1986年には同事務所自体が芸能部門から撤退して、所属する原田知世と原田貴和子、渡辺典子も独立したことなど〔「角川事務所芸能部門撤退」『週刊サンケイ』1986年12月4日号〕〔「原田姉妹、渡辺が独立」『週刊明星』1986年12月4日号〕 の影響があった〔〔。
角川春樹時代の角川映画は作品の製作のみで、完成した作品の配給興行は東映や東宝など他社に依存。1981年にはジャニーズ事務所の『ブルージーンズメモリー』と2本立てだった『ねらわれた学園』の宣伝の扱いをめぐって配給する東宝とトラブルになる〔佐藤忠男、山根貞男責任編集『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開映画全集』芳賀書店、1982年、p.193〕〔斉藤守彦『映画宣伝ミラクルワールド 東和・ヘラルド・松竹富士独立系配給会社黄金時代』洋泉社、2013年、p.161〕。1985年になって念願の配給業に乗り出し、さらに札幌市で角川春樹事務所が経営する形の「角川シアター」という映画館を開いて興行を始めるも、配給は2本の共同配給で終わった。角川シアターもその後は松竹系の札幌ピカデリーを経てアーバンホールとなったが〔2005年12月をもって完全撤退し、跡地はキリンビール園となっている。〕、このときの配給と興行の試みは成功しなかった〔〔キネ旬1993、「角川映画の歩み」、p.60。〕。当時の角川作品は松竹に匹敵する配給収入を挙げており、自社配給と自主興行を成功させ、第6の映画会社として自立されることを恐れた日本映画界の妨害があったともされ〔キネ旬1993、増当竜也 「角川映画に功はあっても罪はない!」、p.62。〕〔「松竹・東映・東宝・にっかつ各映画会社の現状総まくり」『噂の真相』1987年6月号、p.56〕、東映の岡田茂は、角川の自主配給の動きに対し、今後は協力しないと突き放す発言をしている〔文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.197〕。
監督市川崑佐藤純彌斉藤光正深作欣二らベテランに加えて、1980年代から当時若手だった大林宣彦相米慎二井筒和幸森田芳光根岸吉太郎崔洋一らにチャンスを与え、積極的に登用するようになった〔佐藤忠男『日本映画史3 1960-1995』岩波書店、1995年、p.242〕〔井筒和幸『ガキ以上、愚連隊未満。』ダイヤモンド社、2010年、p.114〕〔森田芳光『森田芳光組』キネマ旬報社、2003年、pp.108,114〕〔金子修介『ガメラ監督日記』小学館、1998年、p.39〕。
1990年には1990年代初の大作『天と地と』を手がけて興行収入は92億円を上げた〔。しかし1992年にハリウッド進出第1弾と称した『ルビー・カイロ』を製作するが失敗し、これらを含む一連の映画事業の失敗が、角川春樹と弟の角川歴彦の対立を招く下地となり、1992年に角川書店のお家騒動が勃発する〔岩上安身誰も書かなかった『角川家の一族』(前編) 」『宝島30』1993年11月号、宝島社〕。翌1993年には、角川映画を牽引した角川春樹が薬物所持により逮捕され、角川書店を離れる事態に至り、同年7月封切の『REX 恐竜物語』が角川春樹が角川書店在籍中の最後の映画となる。
角川春樹製作時代の「角川映画」の著作権を巡って、角川春樹と角川書店の間で係争も起こった。著作権は自分にあるとする角川春樹の提訴に対して、東京地方裁判所は角川映画の著作権を角川書店側に認める判断を下している〔平成 13年 (ワ) 13484号 著作権確認請求事件 著作権判例データベース 〕 。角川春樹がかつて製作した映画にはかつては「Haruki Kadokawa Presents」というタイトルクレジットがあったが、これは改定されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「角川映画」の詳細全文を読む



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