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言論出版妨害事件(げんろんしゅっぱんぼうがいじけん)は、1960年代末から1970年代にかけて日本で発生した、新宗教団体・創価学会と同団体を支持母体とする政党・公明党が自らに批判的な書籍の出版、流通を阻止するために、著者、出版社、取次店、書店等に圧力をかけて妨害したとされる事件。 憲法に保障された言論の自由及び出版の自由を侵害するものだとして創価学会・公明党が激しい社会的批判にさらされると共に、創価学会・公明党の密接な関係が政教分離原則の観点から問題視された。1970年(昭和45年)、創価学会会長(後に名誉会長)の池田大作が「言論妨害の意図はなかった」としながらも公式に謝罪し、創価学会・公明党の問題点を改善することを公約した。 == 概要 == 1969年(昭和44年)、明治大学教授で政治評論家の藤原弘達が創価学会・公明党を批判した著書『創価学会を斬る』〔出版・編集を担当した出版元の「日新報道」社長によれば、藤原弘達が創価学会・公明党を取り上げたのは、「創価学会・公明党が自民党との連立政権を狙っているのではないのか」、「公明党と自民党が連立政権を組めば、ファッショ政治になる」という危機感があったからだという。〕を出版することを計画。出版予告が出ると間もなく、藤原や出版元の「日新報道」社に対して電話や手紙で抗議がなされ、直後に予定されていた衆議院選挙への悪影響を考えた公明党幹部の東京都議会議員藤原行正や学会の言論部門トップだった聖教新聞社主幹秋谷栄之助(後に学会第5代会長)が、藤原や日新報道社に本来あるべき取材がないことを抗議し、資料の提供を提案し、書き直しや出版の中止などを要求した〔後に創価学会に反対する立場になった藤原は自書『池田大作の素顔』(講談社1989年)で、池田から批判本の出版を阻止するようにと指示されたと述べている。〕が拒否されたため、公明党中央執行委員長竹入義勝 が 自民党幹事長 田中角栄に事態の収拾を依頼した。角栄も藤原弘達に出版の中止や書き直しを求めた他、「初版分は全部買い取る」などの条件までつけて働きかけたが、藤原の出版の決意を変えることはできなかった。 『創価学会を斬る』が出版されると、今度は聖教新聞社、「潮出版社」などの創価学会系列の出版関係者や創価学会員などが取次ぎ店や全国の書店を回り、藤原の本を返本するよう、扱わないようにと働きかけた〔『創価学会を斬る』の出版元「日新報道」の代表は、自分たちが回った1,500軒を越える書店の8割が創価学会、公明党、聖教新聞社、潮出版社などの関係者から『創価学会を斬る』を扱うなという妨害を受けたと述べている。〕〔第63回国会衆議院 予算委員会 第17号 1970年(昭和45年)3月20日(議事録 )〕〔第63回国会 衆議院 予算委員会 第5号 1970年2月25日(議事録 )〕。各書店からの大量の返本が相次いだこともあり、大手取次店が全国への配本を断り〔出版元、「日新報道」の社長によれば、書籍の配本契約を結んでいた11社のうち、初版の配本を請け負ってくれたのはわずか1社だけだったという。〕、一般紙や電車内の中吊り広告も、掲載の予定が一転して断られることになった。出版社から直接取り寄せた書店の多くも脅迫や嫌がらせを受けた。過去にも出版に対する妨害は他でもあったが、流通過程にまで介入したのは出版史上初めての事であった〔第63回国会 衆議院 法務委員会 第7号 1970年3月18日(議事録 )〕。 創価学会に対する批判をタブー視〔創価学会・公明党を批判することは激しい反対に合うことから、この当時から「鶴タブー」(当時は宗門の紋である鶴をマークにしていた)と呼ばれ、控えられていた。〕〔第63回国会 衆議院 予算委員会 第8号 1970年2月28日(議事録 〕〔藤原弘達は自身の出版について、「これを言論人として天下に知らせることを通じてマスコミのタブーを破ってみたい。つまりタブーへの挑戦のつもりだった」と述べている。『週刊朝日』1970年1月23日号〕していたマスコミがこの問題を取り上げなかった〔『創価学会を斬る』を出版した「日新報道」社長遠藤留治は、藤原弘達が創価学会・公明党による言論出版妨害を取り上げる以前、全国紙の記者や編集幹部に創価学会・公明党の問題点を説明しても、全く扱おうとしなかったことに失望したという〕〔特集「言論出版妨害事件」を再検証する (『FORUM21』 2003年7月1日号)〕中、日本共産党は、所属議員が NHKでの公明党との討論会で出版妨害の事実があったことを告発したり、機関紙『赤旗』(現「しんぶん赤旗」)紙上で、角栄から介入を受けたという藤原の告発を掲載するなど、この問題を先駆けて追及した。 それに対して創価学会・公明党側は「事実無根」だとして、その関与を全面否定した。一方、田中幹事長は公明党の依頼ではなく、「つぶやきを聞いて、おせっかいを焼いた」と、自発的だとしながらも、関与したこと自体は認めた(竹入は後に創価学会に反対する立場になり、「田中の女性問題の追及を止める見返りに藤原弘達に対して働きかけてもらった」旨を述べている)〔「秘話 55年体制のはざまで」 - 朝日新聞1988年(昭和63年)8月26日朝刊〕。 共産党の報道をきっかけに、他のマスコミも創価学会・公明党を批判的に報じるようになった。この問題は1969年から1970年の国会で取り上げられ、出版を阻止するための組織的と見られる行為があったこと、公明党の幹部らが働きかけたこと、藤原以外にも批判本を書いたために出版に対する妨害を受けたとする著者が多数いたことなど、問題の詳細が明らかにされて行った。また創価学会・公明党関係者だけでなく、与党の幹事長という大きな権力を持つ立場にある角栄までが介入していたことはこの問題をより大きくした。幹事長の関与で、自民党自身にも責任が及びかねないこともあってか、当時の政府(佐藤内閣)はこの問題の真相究明に関して消極的な姿勢に終始した。 また、この事件を機に、宗教団体である創価学会と政党である公明党の関係が「政教分離」に反する問題として論じられた。野党から真相究明のため、創価学会会長池田大作をはじめ関係者の証人喚問を要請する声が上がった。しかし、自民党、公明党の反対で国会の場では実現しなかったため、野党の有志議員が妨害を受けたとする著者や出版関係者らを議員集会に招いて、証言を聴いた。そうした中で、出版業界の関係団体からも創価学会・公明党の言論妨害を非難する声明がいくつも上がり、「言論の自由」や「出版の自由」を守れという世論が高まり、多くの知識人・文化人もこの問題に対して声を挙げ、真相究明、問題の解決に取り組んだ。 このような社会的批判の高まりと、政治的追及が創価学会と公明党の「政教一致」問題にまで及ぶに至り、池田は1970年(昭和45年)5月3日に創価学会本部総会で、「『正しく理解してほしい』という極めて単純な動機から発したものであり個人の熱情からの交渉であった」、「言論妨害というような陰湿な意図は全くなかった〔」と弁明しながらも、「名誉を守るためとはいえこれまでは批判に対してあまりにも神経過敏にすぎた体質がありそれが寛容さを欠きわざわざ社会と断絶を作ってしまったことも認めなければならない」「いかなる理由や言い分があったにせよ関係者をはじめ国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げるものであります」と謝罪し、「今後は二度と同じ轍(てつ)を踏んではならぬと猛省したい」、「もしでき得ればいつの日か関係者の方におわびしたい」〔池田が当時の関係者に謝罪した事実は今日まで確認されていない。〕と反省の意を示した。 そして、それまでの方針を一大転換し、日蓮正宗の国教化を目指しているとして問題視されていた「国立戒壇」(国会の議決で日蓮正宗の戒壇を作る)という表現をこれからは使わない、国会の議決を目標にしないとし、政教分離の点で批判の強かった創価学会と公明党を制度上、明確に分離すること、創価学会の「非民主的体質」を改めることなどを公約した(公明党は党の綱領から「王仏冥合」「仏法民主主義」などの宗教用語を削減した)。この時、学会の新たな方針を「蓮祖大聖人の御遺命に背く」と激しく非難し鋭く対立したのが、浅井甚兵衛・昭衛親子率いる妙信講(現・冨士大石寺顕正会)である。 同時に、学会が第2代会長戸田城聖の就任直後から20年に渡って続けてきた折伏大行進と呼ばれる急激な会員拡張路線に終止符が打たれ、以後は既存学会員世帯に残る未入会家族の折伏や新たに生まれた子供の教育といった「信者の再生産」に重点が置かれると共に、学会に新規入会を希望する人への審査が非常に厳しくなった。 これまで敵対して来た日本共産党に対しても、「共産党の攻撃への防衛のため反撃せざるを得なかった」、「泥仕合は出来るだけ避けたい」、「我々はかたくなな反共主義を掲げるものではない」と対決姿勢を取らないことも一度は明言。後に結ばれる『創共協定』への伏線を敷く結果となった〔この年(1970年)、創価学会関係者が日本共産党常任幹部会委員長宮本顕治の自宅の盗聴を行なっていた(宮本が損害賠償請求訴訟を起こし、一審、二審とも創価学会関係者の関与を認める判決が出、創価学会側は上告するが、後に取り下げて損害賠償金を支払った)ことから、この日本共産党に対して対決姿勢を取らないとした発言を疑問視する声がある。〕。 この問題が明らかになったことで、内藤国夫の『公明党の素顔』、隈部大蔵の『創価学会・公明党の解明』など、同様の妨害を受けていたとされる他の著作も日の目を見ることになった〔身の危険を感じていた隈部はステッキを常に携帯し、医療用の固いコルセットをつけて万一のときに備えていたが、『創価学会を斬る』の問題が大きくなったことで、大丈夫と判断し、そのような対策を止めたという。〕〔第63回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第5号 1970年3月17日(議事録 )〕。結果的に『創価学会を斬る』は世間の注目を集め、100万部以上を売るベストセラーとなった。一方で、評論家の大宅壮一やジャーナリストの大森実は藤原が角栄と面会したことや、選挙直前に出版したことなどを批判した〔大宅は藤原が2度も赤坂に出向き、角栄と面会・交渉したことを「本当の学者や政治評論家のとるべき態度ではない」、衆議院選挙の1ヵ月前に出版したことについて、「選挙戦における秘密兵器の効果を狙ったと思われても仕方ない」、「藤原弘達自身も言っているように部下に口述したもので、それをまとめるのは出版社に一任したという安易なプロセスによって書き上げられたキワモノ出版と言わざるを得ない」などと批判した。(『現代』昭和45年3月号)。大森も大宅の見解を支持し、「赤坂(田中との面会場所)に出かけるのはジャーナリストではない。取り引きであってあれはジャーナリストとして落第です(『週刊サンケイ』1970年3月9日号)」と批判した〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「言論出版妨害事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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