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許崇コウ[きょ すうこう]
許 崇灝(きょ すうこう)は中華民国の軍人・政治家。革命派軍人として孫文(孫中山)を支持して戦い、国民政府成立前後からは政治家に転じた。字は公武。中山大学校長などをつとめた教育者・許崇清の兄で、中国国民党の元老許崇智の堂兄(父方の従兄)〔東亜問題調査会編(1941)、42頁は、許崇智を1883年生まれ(通説は1887年生まれ)と記述していることから許崇灝をその「従弟」とみなしているが、これは誤りと思われる。〕である。 == 事跡 ==
=== 革命派の軍人 === 江南(南京)陸師学堂を卒業。〔東亜問題調査会編(1941)、42頁は、その後に日本へ留学して陸軍歩兵学校で学んだ、としている。しかし陸軍歩兵学校の創設は1912年(大正元年)であり、明らかに記述が誤っている。〕1911年(宣統3年)10月に辛亥革命が勃発すると、鎮江での革命派蜂起に参加し、鎮軍都督府参謀長兼第1支隊長となった。続いて南京攻略に加わり、攻略後には南京臨時警備司令に任ぜられた。まもなく北伐軍兵站総監も兼ねている。南京に中華民国臨時政府が成立すると、南京衛戌総都督府監察処処長に任ぜられた。北京遷都後は、南京留守警備局局長となった。〔徐主編(2007)、1685頁〕〔劉国銘主編(2005)、582頁〕 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、革命派の江蘇討袁軍総司令部主任参謀をつとめたが、敗北している。1915年(民国4年)末からの護国戦争では、両広護国軍司令部高級参謀兼護国軍第1独立旅司令部参謀長兼第17団団長をつとめた。1917年(民国6年)、陝西省に赴き全省警備総司令部総参議となる。まもなく南方に引き返し、翌年、粤桂滇北伐聯軍兵站総監兼粤漢鉄路監督となる。以後、総理粤漢鉄路事宜、粤漢鉄路を歴任して、数年にわたり同鉄路の防衛・管理を担当した。〔〔
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