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許崇清[きょ すうせい]
許 崇清(きょ すうせい)は中華民国・中華人民共和国の教育家・政治家。広東省政府で10数年にわたり要職をつとめた一方で、教育界においても国立中山大学校長などに就任した人物である。中華人民共和国成立後も、やはり広東省で教育・政治活動に従事した。字は志澄、芷澄。兄は許崇灝、堂兄(父方の従兄)は中国国民党の元老許崇智である。〔劉国銘主編(2005)、581頁は「許崇智の弟」としている。〕 == 事跡 ==
=== 広東省政府委員に至るまで === 1905年(光緒31年)、日本に留学し、東京高等師範学校(現・東京教育大学)で学ぶ。このとき、中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)、辛亥革命勃発を受けて休学・帰国し、革命に参加している。翌年、日本に戻って復学した。その後、東京帝国大学文学部に入学し、卒業後は大学院でも研究を継続した。〔劉国銘主編(2005)、581頁。〕〔徐主編(2007)、1685頁。〕 1920年(民国9年)夏に大学院を卒業・帰国し、教育界に身を置くことになる。1921年(民国10年)2月、広州市教育局局長に任ぜられ、翌年には、陳独秀が組織した広東省教育委員会で委員となった。1923年(民国12年)10月、孫文(孫中山)の指名により、中国国民党臨時中央執行委員会委員に任ぜられた。翌年1月の国民党第1回全国代表大会にも出席している。〔〔 1925年(民国14年)7月、広東省政府教育庁庁長に任命され、翌年2月には広州国民政府教育行政委員会委員も兼任した。1927年(民国16年)4月から10月にかけて、〔劉国銘主編(2005)、581頁による。徐主編(2007)、1685頁は「1927年7月」就任とする。〕南京国民政府教育行政委員会委員をつとめる。同年7月、広東省政府教育庁長を離任し、翌月からは同省政府委員に任ぜられる。1928年(民国17年)12月、同省政府民政庁長に任ぜられ、翌年7月に教育庁長代理に転じ、1930年(民国19年)1月、再び民政庁長に戻った。1931年(民国20年)4月、民政庁長を辞任して省政府委員専任となり、以後、1945年(民国34年)8月まで一貫してこの地位にあった。〔〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許崇清」の詳細全文を読む
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