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許 平君(きょ へいくん、紀元前89年? - 紀元前71年)は、前漢の宣帝の皇后で元帝の母。諡号は恭哀皇后。 == 生涯 == === 民間時代 === 昌邑王・劉髆に仕える下級官吏であった許広漢の娘として生まれる。のち、父親の許広漢は罪を犯して宮刑に処せられ、宦官として後宮に勤務することになった。平君は長じて、内者令(後宮の衣装係である宦官)・欧侯氏の息子との縁談が整うものの、婚礼前に死に別れてしまう。 この頃、戻太子の孫であり武帝の曾孫である劉病已(後の宣帝)は、巫蠱の獄により庶人とされ、民間で育てられていた。もと戻太子の家臣だった張賀は自分の孫娘を劉病已の妻にしようと考えたが、弟の張安世が反対したため、部下にあたる許広漢に病已と平君との縁談を持ちかける。病已が貧乏であったことから許広漢の妻は反対したが、最終的に縁談はまとまり、平君は病已に嫁ぐ。 この縁談については、平君の父・許広漢は罪を犯して宦官となった身、劉病已は戻太子の孫ということで、ともに少なからず人目をはばかる出自であったことが影響しているかも知れない。 1年ほど後に平君は、後に元帝となる息子の劉奭(劉セキ。セキは「大」の両側に「百」)を生む。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許平君」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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