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許 継祥(きょ けいしょう)は、中華圏の人名。中華民国において同姓同名の2人の著名人が存在する。 *許継祥 (福建) - 中華民国の軍務官僚。本記事において詳述する。 *許継祥 (江蘇) - 中華民国の講談師(1899 - 1943)。 ---- 許 継祥(きょ けいしょう) は中華民国の軍務官僚。北京政府・護法軍政府・国民政府で海軍の軍官僚として活動し、後に汪兆銘政権に参加した。字は翥屏。 == 事跡 == 福州華英学院を卒業。辛亥革命が勃発すると許継祥は革命派に参加し、1911年(宣統3年)11月に上海の滬軍都督府で顧問官に任ぜられた。1914年(民国3年)7月、北京政府で海軍部軍法司司長に任命される。護法運動が開始されると、許は南下して孫文(孫中山)らの護法軍政府に参加し、1917年(民国6年)9月、大元帥府参議となった。その後、全国海道測量局局長、全国海岸巡防処処長を歴任している。〔徐主編(2007)、1693-1694頁。〕〔劉国銘主編(2005)、580頁。〕〔東亜問題調査会編(1941)、41頁。〕 国民政府成立後の1928年(民国17年)12月、軍政部海軍署海政司司長、軍需署営造司司長に任ぜられた。1930年(民国19年)2月、海軍部の成立・改組を経て海政司司長に留任する。〔徐主編(2007)、1694頁。〕〔〔その後、1938年(民国27年)1月に海軍部が改組されて海軍総司令部となるまで、一貫して許継祥はこの地位に留まった。〔劉寿林ほか編(1995)、468-470頁。〕1936年(民国25年)9月、海軍少将の位を授与されている。〔「福州籍将領名表」 福建省情資料庫(福建省地方志編纂委員会ホームページによる。〕 その後、許継祥は汪兆銘(汪精衛)に合流し、1940年(民国29年)3月の汪兆銘政権の成立とともに海軍部常務次長に任ぜられた。〔翌年には軍事参議院参議にも任ぜられている。〔1942年(民国31年)4月8日、在職のまま死去。〔劉寿林ほか編(1995)、1067頁。〕〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許継祥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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