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諏訪 佐市(すわ さいち、1908年9月10日 - 1989年5月24日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1926年に阪神競馬倶楽部で騎手デビューし、最高格競走・帝室御賞典で2勝を挙げるなど活躍。1937年より調教師騎手兼業となったが、太平洋戦争中に一時廃業。1954年より再び調教師として復帰し、それぞれ桜花賞に優勝したミスリラ、スギヒメなどを手掛けた。1989年に定年引退。 == 経歴 == 千葉県香取郡出身〔『調教師の本』p.376〕。1924年に阪神競馬倶楽部(鳴尾競馬場)の新堂捨蔵厩舎に入門し、1926年に騎手免許を取得した〔。騎手としての成績詳細は不明だが〔『調教師の本』pp.347-349〕、スモールジャック、ダイナモといった騎乗馬で帝室御賞典を制したほか、14勝を挙げた抽籤馬スモールドウターなどで活躍し〔井上(1964)p.227〕、男ぶりの良さもあり関西では武田文吾、大久保亀治と並ぶ花形騎手であったという〔。 1937年に調教師・騎手兼業となったが、太平洋戦争の勃発とその激化に伴い1944年から競馬開催が大幅に縮小(翌年休止)されると郷里の千葉に戻り、しばしラッカセイ作りで生計をたてた〔。 日本中央競馬会が発足した1954年、調教師として復帰〔。中京競馬場に所属し、後に「ダテ」の冠名でも知られた浅野国次郎が顧客としてついた〔。1956年には浅野の所有馬ミスリラで桜花賞に優勝し、クラシック競走初制覇を果たす。1961年にはスギヒメで再び桜花賞を制した。管理下からの八大競走優勝馬はこの2頭のみであったが、他にも1964年から66年にかけて重賞8勝を挙げたバリモスニセイや、1967年の中山大障害(秋)を制したヤマニンダイヤなど、数々の重賞勝利馬を手掛けた。1966年には優秀調教師賞を、1971年には調教技術賞を受賞した〔。 相馬眼や血統についての造詣は高く評価され、数々の有力馬主からの後援を受けた〔。調教師として関西きっての存在となった武田文吾とは友人かつよき競争相手であり、「喋りでは文ちゃんに負ける。しかし、馬の仕上げでは負けん」が口癖であったという〔『調教師の本』pp.351-352〕。他方、人の好き嫌いは激しく、また「瞬間湯沸かし器〔『調教師の本』pp.357-359〕」というほどの短気な性格が災いし、前述の浅野を含め馬主との衝突の末に馬を引き上げられたり〔、代替わりを機に関係を絶たれることも多かった〔。このため、晩年は良馬に恵まれなかったともいう〔。 1989年、先だって決まっていた調教師の定年制が実施されると、諏訪は関西所属の適用者第1号となり、同年2月28日をもって引退した。通算6752戦815勝〔。同年5月24日、肺炎のため80歳で死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諏訪佐市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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