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諏訪忠晴[すわただはる]
諏訪 忠晴(すわ ただはる)は、信濃高島藩の第3代藩主。第2代藩主諏訪忠恒の長男。 明暦3年(1657年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、筑摩郡5000石のうち、弟の頼蔭(埴原知行所)と頼久(百瀬知行所)にそれぞれ1000石ずつ分知し旗本に列させたため、高島藩は3万2000石から3万石となった。百瀬知行所には陣屋を置いた。同年12月27日に叙任する。 藩政においては宗門改めや検地を行なって藩政の整備に努めた。また、天和元年(1682年)には高田城在番と高田領内の検地を務めた功績〔天和元年(1681年)の高田藩の松平光長改易後の4年間は1年交代で、近隣の大名2家ずつが選ばれ、高田城に在城で城番を務めた。忠晴の時の相方は同じ信濃国の上田藩主の仙石政明と思われる。〕により、天和3年(1683年)7月28日に幕府より恩賞を授かっている。その後も大坂城山里御門番、江戸火消役などを務めた。 文化人としても優れており、延宝4年(1676年)武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂し、狩野派の絵も良くした。元禄8年(1695年)3月2日に57歳で死去し、跡を三男の忠虎が継いだ。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諏訪忠晴」の詳細全文を読む
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