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諏訪 根自子(すわ ねじこ、1920年(大正9年)1月23日 - 2012年(平成24年)3月6日)は、日本の女性ヴァイオリニスト。本名:大賀 根自子。可憐な容姿であったことから国民的な人気を得て「美貌の天才少女」と一世を風靡したほか、ヨーロッパに渡ってベルリン・フィルなど各地の交響楽団と共演を果たして国際的に活躍した。 == 来歴 == 東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷225番地(現・東京都渋谷区広尾3-14)で生まれ、3歳から北豊島郡高田町大字高田1649番地(豊島区目白2-23)に育つ。父親の諏訪順次郎は庄内地方の大きな肥料会社を経営する資産家・諏訪八右衛門の子息で、母親の滝は酒田高等女学校時代に声楽家を志望するほど音楽に傾倒した女性であったが、両親の取り決めで順次郎に嫁いだ。その直後、肥料会社が倒産し、夫婦は東京へ出て、そこで根自子が生まれる。 順次郎は、有島武郎、有島生馬など白樺派の作家、芸術家と親しく、クラシック音楽のレコードを購入してきた。これを聴いた幼い根自子が正確な音程でこれを歌うのを聴き、滝は1923年、満3歳の根自子を小野アンナの弟子、中島田鶴子に入門させ、1年後、その才能を認めたアンナに直接師事しヴァイオリンを習う。またやはり白系ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキーにも習い、1927年生馬の紹介で一条公爵家の園遊会で演奏会を行い、1929年小野アンナ門下生の発表会で演奏して次第に注目を集め、1930年秋、来日したエフレム・ジンバリストに紹介されてメンデルスゾーンの協奏曲を演奏して驚嘆させ、1931年朝日新聞に「天才少女」として紹介される。 1932年4月9日、東京の日本青年館で初リサイタルを開き「神童」と呼ばれる。だが1933年、滝が根自子を連れて家出する事件が起こり、新聞は順次郎が根自子に暴力を揮うと書きたてたが、実際は順次郎の浮気による夫婦不和が原因であった。1934年から、生馬の弟の里見弴はこの事件をモデルに長編「荊棘の冠」を発表。別居には鈴木鎮一、所三男、山科敏が相談相手として手を貸していた。 ベルギーの駐日大使バッソンピエールが彼女に注目し国王らも歓迎したため、外務省が後援して1936年ベルギーに留学、1938年パリに移って、原智恵子の紹介でカメンスキーに師事するが、翌年第二次世界大戦が勃発。しかし帰国せず、ドイツ軍によるパリ占領後もとどまって、1942年田中路子を頼ってドイツに移り、クナッパーツブッシュ指揮のベルリン・フィルと共演、ゲッベルスからストラディヴァリウスと伝えられるヴァイオリンを贈られる。以後ベルリンとパリを往復するが、パリ滞在中、ノルマンディー上陸作戦があり、パリを脱出してベルリンへ向かい、スイスで演奏会を開いたりするが、ベルリンが陥落してアメリカ軍に拘束され、米国を経て帰国する。 帰国間もない時期の録音としては、NHKラジオ第2放送『放送音楽会』(1949年11月28日)に出演し東宝交響楽団(現・東京交響楽団)との共演でブラームスの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」を演奏した音源がNHKアーカイブスにて保存されている〔朝日新聞、2013年6月9日〕。 戦後は日本で井口基成、安川加寿子らとコンサートを開くが、60年以後、演奏の第一線から引退する。その後の消息はほとんど聞かれず、伝説中の人物となっていた。病身の夫〔大賀小四郎。1969年夏にケルン日本文化会館初代館長。ベルリンで知り合う。〕の介護などで忙殺されていたとされるが、1978年~1980年録音のバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」がキングレコードより発売された。1990年代になって、ごく少ない機会ながら私的なサロン・コンサートで演奏する様になり、1994年録音の幾つかがCD化されて、変らず気品と迫力のある演奏が話題になった。 2012年9月24日、同年3月6日に脳梗塞後遺症のため死去していたことがわかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諏訪根自子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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