翻訳と辞書
Words near each other
・ 諏訪町 (曖昧さ回避)
・ 諏訪町 (桐生市)
・ 諏訪町駅
・ 諏訪盆地
・ 諏訪盛政
・ 諏訪盛條
・ 諏訪盛澄
・ 諏訪盛経
・ 諏訪盛重
・ 諏訪直性
諏訪直頼
・ 諏訪真希子
・ 諏訪真性
・ 諏訪社
・ 諏訪神
・ 諏訪神党
・ 諏訪神社
・ 諏訪神社 (中津川市茄子川)
・ 諏訪神社 (久喜市栗原)
・ 諏訪神社 (仙台市太白区)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

諏訪直頼 : ウィキペディア日本語版
諏訪直頼[すわ ただより]
諏訪 直頼(すわ ただより、生没年不詳)は、南北朝時代武将諏訪氏当主、諏訪大社大祝神官)、信濃守
== 生涯 ==

===== 諏訪信濃守について =====
この頃の諏訪氏は、頼重時継父子が建武2年(1335年)7月の中先代の乱北条時行を擁して敗死し没落しており、大祝職と惣領は時継の遺児・頼継(よりつぐ)が継いだとされる。
この頼継は、翌建武3年(1336年)の段階で8歳であったと伝わり〔延川和彦ほか著・飯田好太郎補『諏訪氏系図 正編』(1921年、デジタル版 104頁目)〕、これを信ずるならば一般的な元服の年齢である10代前半当時は正平5年/貞和6年(1350年)頃であったということになる。その頃、正平6年/観応元年(1351年12月15日には諏訪社神長官守矢氏への祈願を依頼する「信濃守頼嗣」が〔阪田、1994年、P.9。典拠は『守矢文書』、『南北朝遺文』関東編3 P.200 1940号。〕、翌正平7年/文和元年(1352年1月小笠原政長の書状の文中に「信濃守直頼」が〔阪田、1994年、P.9。典拠は正平7年(1352年)正月日付「武田友光軍忠状」(『甲斐武田文書』、所収:「古文書」浅草文庫本、『南北朝遺文』関東編3 2175号)。〕、それぞれ史料(古文書)上で確認できる。これらが「信濃権守」を称したとされる頼継〔と同じ「信濃守」の官途を持っている〔「権守」(ごんのかみ)とは、権官のことであり、正規の官になると「○○権守」から「○○守」となる。〕ことから、頼継・頼嗣・直頼はいずれも同一人物ではないかとする見解がある〔阪田、1994年、P.9。〕。諏訪系図の一部でも「信濃権守頼継」の項に「改頼嗣又頼寛又直頼」とあり〔延川和彦ほか著・飯田好太郎補『諏訪氏系図 正編』(1921年、デジタル版 104頁目)、太田亮『日本国誌資料叢書』第一巻(復刻版、講談社、1977年)。〕、観応元年12月まで「頼嗣」を名乗っていた人物は、翌年1月までの僅かな期間内に「直頼」と改名した可能性がある〔。その活動や改名時期からして「直」の字は足利直義偏諱を受けたものと考えられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「諏訪直頼」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.