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諸川宿[もろかわしゅく] 諸川宿(もろかわしゅく、もろかわじゅく)は、江戸時代の日光東街道(関宿通多功道)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市諸川に相当する。 日光東街道の起点となる水戸街道小金宿・我孫子宿間の追分から数えて7番目の宿場である。 == 歴史 == 江戸時代以前の諸川は「茂呂河」とも呼ばれ、結城氏庶流の豪族・山川氏の所領であったと考えられている。〔円福寺所蔵「山川景貞文書」(康生3年・1457年頃)、および、 山川晴重知行目録(天正18年・1590年)より〕 〔『三和町史 通史編 原始・古代・中世』 361-364頁(茂呂河と山川氏)〕 慶長5年(1600年)、徳川家康の会津出兵では、山内一豊が諸川に宿陣しており(『山内家史料一豊公記』)、このころには町屋が整備されていたことが分かる。このとき、山内一豊は妻から大坂・石田三成方の情勢を知らせる「笠の緒の密書」を受け取り、下野・小山に在陣中の徳川家康に届けることで、家康の信頼を得た。その後の立身のきっかけとなった場所でもある。〔『三和町史 通史編 近世』 39-41頁(小山会議)〕 宿駅の成立は、元和5年(1619年)頃と考えられている〔『三和町史 通史編 近世』 201頁(諸川・仁連・谷貝町(宿)の成立)〕。宿駅の管理は主に幕府が担った。ただし、寛永16年(1639年)から18年までは下野国の壬生藩領、寛永18年から宝暦元年(1651年)までは旗本領〔三和町史 通史編 近世』 82頁(旗本三浦氏の改易・壬生藩主の分家)〕 であった。〔『日光東街道 諸川・仁連・谷貝町~景観いま、むかし~』 21-35頁(日光東街道 諸川町のいま、むかし)〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸川宿」の詳細全文を読む
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