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謝方明(しゃ ほうめい、380年 - 426年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚。本貫は陳郡陽夏県。 == 経歴 == 東晋の中書侍郎の謝沖の子として生まれた。399年(隆安3年)、謝沖は孫恩の乱のために会稽で殺された。このとき方明は伯父の呉興郡太守謝邈とともに呉興におり、避難するよう謝邈に勧めたが、聞き入れられなかったため、方明はひとり逃れて難を免れた。劉牢之らが孫恩を討って海上に追い落とすと、方明は謝邈の門生100人あまりを集め、謝邈を裏切って孫恩についた馮嗣之と仇玄達らを討ち果たした。 反乱の直後で冠婚葬祭の礼は廃れていたが、方明は亡くなった親族の葬礼のために資産を使い果たした。400年(隆安4年)、孫恩が再び会稽を落とし、謝琰が殺害された。方明は上虞県から母や妹を連れて東陽郡に逃れ、黄櫱嶠から鄱陽に出て、建康に入り、国子学に寄宿した。402年(元興元年)、桓玄が建康を占拠した。桓玄の政権下で丹陽尹の卞範之が権勢を振るっており、娘を方明にとつがせようと、尚書吏部郎の王騰を派遣して説得させたが、方明は受け入れなかった。桓玄はこのことを聞いて称賛し、方明は著作佐郎に任じられ、王謐の下で司徒主簿をつとめた。 このころ従兄の謝景仁が劉裕の下で中兵主簿として仕えていた。方明はその縁で劉裕の知遇をえて、従兄の謝混とともに名を知られるようになった。丹陽尹の劉穆之は方明と知り合ったことを喜んで、方明のことを「家駒」と評した。ほどなく方明は従事中郎に任じられ、そのまま劉道憐の下で左軍長史となり、劉裕の軍府の事務を決裁した。中軍長史に転じ、まもなく晋陵郡太守の任を加えられた。さらに驃騎長史・南郡相となって、やはり軍府の事務を委された。 ときに江陵県の獄の囚人二十数名を保釈して、一時帰宅させ、3日後に獄に戻させることとした。弘季盛と徐寿之が反対したが、方明は聞き入れず、囚人を帰宅させて父兄と面会させた。期日がきて2人が帰ってこなかったが、方明は追っ手を送ろうとしなかった。そのうちの1人は酔って期日に帰れなかっただけで、2日すると戻ってきた。もう1人は10日しても戻ってこなかったため、五官の朱千期がこれの討捕を願い出た。しかし方明は囚人が自ら戻ってくると確信して、追っ手を差し向けなかった。この1人も逡巡していたが、郷村の責めを受けて送られてきたため、ついに逃亡者は出なかったという。 母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、宋国の尚書吏部郎となった。420年(永初元年)、劉裕が帝位につくと、方明は侍中となった。422年(永初3年)、丹陽尹として出向し、有能で知られた。会稽郡太守に転じた。426年(元嘉3年)、在官のまま死去した。享年は47。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「謝方明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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