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谷 幸雄(たに ゆきお、1880年(明治13年)- 1950年(昭和25年)1月24日)は、柔術家(不遷流、講道館柔道)。身長160cm未満、体重は60kg未満。主に英国で活躍、「スモール・タニ」の愛称でも知られ、ロンドンのミュージックホールなどで数多くの他流試合を行った。新聞「スポーティング・ライフ」にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのライト級チャンピオン ジミー・メラーに勝利したことを称えられる。 == 年譜 == 父や祖父も柔術家で、不遷流柔術は田邉又右衛門(不遷流第4代)に習ったという。 *1900年9月に渡英〔兄と共に渡英、兄が先に渡英などの説がありいずれが正しいのか未詳。〕。E・W・バートンライト(E.W.Barton-Wright)が設立した「バーティツ」(''Bartitsu'')道場にも招かれ指導に当たった。この「バーティツ」より着想を得た作家のコナン・ドイルが、自身の小説の主人公シャーロック・ホームズは東洋武術「バリツ」の習得者で、この技で「最後の事件」の際に危機を脱し、一命を取り留めた…との設定を思いついたとの説もある。 *1903年「バーティツ」の事業は失敗し、同じく日本から来た柔術家である上西貞一らとともにロンドンミュージックホール(music halls)においてウイリアム・バンキアー(アポロ)の下で、チャレンジというジャケットマッチで対戦者を一般から15分もてば20ギニー、勝てば追加百ポンドという条件で募り、、これを関節技や絞め技で次々に返り討ちにして評判を呼んだ。11月には、”ロシアのライオン”の異名を取ったジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけたが、実現しなかった。 *1904年、三宅多留次(後のタロー・ミヤケTaro Miyake)と戦い敗れる。また共同で日本柔術学校を開設。 *1906年、英文の著書「」を出版(共著)。 *1918年1月26日、小泉軍治(Gunji Koizumi)により設立されたロンドンのロンドン・武道会(Budokwai)・ジュードー・クラブで指導者になる。 *1920年(大正9年)1月、嘉納治五郎が武道会を訪れ、小泉軍治とともに講道館柔道二段を寄贈される。 *1950年1月24日、英国で生涯を閉じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷幸雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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