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谷木恭平 : ウィキペディア日本語版
谷木恭平[たにき きょうへい]

谷木 恭平(たにき きょうへい、1945年11月12日 - )は、北海道札幌市出身の元プロ野球選手外野手)。2012年より北翔大学野球部監督を務めている〔元中日谷木氏「全力投球」北翔大監督就任 - 日刊スポーツ・2011年12月1日〕。
== 来歴・人物 ==
北海高時代、甲子園に3回出場。特に準優勝した1963年第35回選抜高等学校野球大会では、1試合5盗塁の大会記録を含む9盗塁をマーク。この大会で谷木が出塁すると、応援席から「ゴー!ゴー!谷木」コールが出るなど類まれな盗塁能力を有していた。
卒業後立教大学に進み、1965年秋の東京六大学リーグ戦では首位打者を獲得。1966年春のシーズンには槌田誠小川亨らとともに優勝。また、4年時には全日本学生選抜にも選ばれた。リーグ通算90試合出場、302打数65安打、打率.215、3本塁打、27打点。ベストナイン1回。1967年秋のドラフト会議大洋ホエールズから10位指名を受けるが、拒否して新日鐵室蘭に入社。5年間プレーした後1972年に退社し、同年秋のドラフト3位で中日ドラゴンズに入団。既に28歳で2人の子持ちであった。実は中日は高卒・大卒時にも谷木を勧誘したが果たせず、社会人でも在籍中は会社の意向により指名はできなかったため、獲得には実に10年の月日を要することになった。
即戦力として期待されたが、入団1年目の1973年は結果を残すことが出来なかった。2年目の1974年も控えスタートだったが、6月中旬に不振のジミー・ウィリアムに代わって2番センターに定着し、2本のサヨナラ安打を放つなど、中日の20年ぶりのリーグ優勝に攻守にわたって貢献した。
やや中腰の構えからのしぶとい打撃に加え、外野守備のカンの良さがあったが、遅いプロ入りのためかセールスポイントであった走塁には衰えが目立ち、走塁ミスや盗塁死も少なくなかった。また、8年間在籍したものの、ジーン・マーチン井上弘昭大島康徳藤波行雄田尾安志ローン・ウッズウィリー・デービスなど、強力な布陣を擁する中日外野陣の中で常にレギュラー争いを強いられたこともあり、規定打席に到達したシーズンは一度もなかった。1980年の引退後は、郷里の札幌市内で飲食店「おでんの一平」を営む傍らスカウトを務め、1994年から1995年には中日の一軍外野守備・走塁コーチも務めた。
2012年1月1日付で北翔大学野球部監督に就任。それに先立つ2011年11月に「おでんの一平」を閉店しており、野球指導者に専念している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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