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豊ノ海 義美(とよのうみ よしみ、本名:西尾 義美(にしお よしみ)、1939年3月28日- )は、大分県宇佐郡長洲町(現役当時、現・同県宇佐市)出身で、1950年代後半に活躍した大相撲力士。時津風部屋に所属していた。最高位は西前頭18枚目(1958年11月場所)。現役時代の体格は178cm、83kg。得意手は左四つ、寄り、内掛けなど。 == 来歴・人物 == 地元の中学校を卒業後上京し、同郷の元横綱・双葉山が率いる時津風部屋へ入門。1954年5月場所で初土俵を踏んだ。 同場所では番付外と新序でともに好成績を挙げたため、同年9月場所では序ノ口を飛び越して、序二段に付け出された。なお、当初より四股名は、「豊ノ海」であった(由来は、大分県北部と福岡県東部地域の旧称「豊前」と「瀬戸内海」から)。 体は痩せていたが足腰は強靭で、勘も鋭かった。その長所を生かして順調に番付を上げ、1957年11月、初土俵から僅か3年半で新十両に昇進。 翌年9月場所では19歳の若さで新入幕を果たし、同時に入幕した若秩父や富樫とともに「ハイティーン・トリオ」の一員として話題の的となった。この場所では3人とも勝ち越したが、豊ノ海は岩風や國登など、後に三役の常連となる力士やかつての小結経験者らを破っている。 だが、自己最高位となる西前頭18枚目に進んだ同年11月場所では4勝11敗と大きく負け越して、再び十両へ逆戻り。この頃から私生活が乱れ始め、相撲にも身が入らなくなっていった。 以降は、場所が終わる度に部屋を脱走し、場所直前に部屋関係者が連れ戻すという事態が常態化。ついに親方衆はもう二度と連れ戻さないと決意し、豊ノ海の両親を時津風部屋へ呼んで、彼を破門する事を宣告した。 そして、幕内に返り咲く事が叶わないまま、1959年5月場所を以って20歳2ヵ月という若さで廃業してしまった。 これは、廃業当時としては実力本位で番付が掲載されるようになった明治以降に於いて、関取経験者が現役を退いた最年少記録であった。 その後、2008年8月21日に大麻取締法違反で逮捕された事を理由に日本相撲協会から解雇された元前頭の若ノ鵬が20歳1ヵ月で相撲協会を去るまで、50年近く記録が更新されなかった。 廃業後は故郷の大分に戻り、戸高鉱業社(本社・津久見市)に勤務したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊ノ海義美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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