|
豊島 一(とよしま はじめ、1920年(大正9年)3月20日 - 1944年(昭和19年)8月5日)は、日本海軍の軍人、戦闘機搭乗員。最終階級は三等飛行兵曹。第57期普通科信号術練習生、第7期飛行練習生卒業。 第二次世界大戦でのオーストラリアにおける日本兵捕虜第一号であり 、カウラ事件の中心的人物でもある。 == 経歴 == 香川県三豊郡勝間村(三豊市高瀬町)出身〔中野(1984)、p.150〕。農家、豊島元兵衛とコマツの三男として生まれる。勝間尋常小学校(現三豊市立勝間小学校)、高等科、青年訓練所を経て戦闘機搭乗員を志し〔中野(1984)、p.274〕1938年(昭和13年)、佐世保海兵団に入団。普通科信号術練習生、長良乗組、陸戦隊、千歳・加賀乗組を経て、第五十六期操縦練習生に合格。第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母「飛龍」航空隊の所属となった。 1942年(昭和17年)2月19日、南雲忠一中将率いる第一航空艦隊はを実施する。この日、空母「飛龍」から発進した攻撃隊の機数は、零式艦上戦闘機9機、九九式艦上爆撃機17機、九七式艦上攻撃機18機であった〔#飛龍飛行機隊戦闘行動調書(2)p.34〕〔。戦闘詳報によれば、豊島は零戦隊第1小隊(小隊長:熊野澄夫大尉〔中野(1984)、p.148〕)3番機(零式艦上戦闘機二一型、製造番号5349、機体番号はBII-124〔)として午前6時30分(オーストラリア現地時間午前8時30分)ごろ発艦した。 高度5000メートル東飛行場滑走路上の航空機を機銃掃射にかかる直前〔中野(1984)、p.169〕の午前8時15分~20分ごろ、東部パーリマー高射砲隊前〔中野(1984)、p.171〕からの砲弾の破片がエンジンオイルのタンクを貫通してエンジントラブルを起こした。豊島は友軍に別れを告げると、8時30分ごろ飛龍に「我死スメルヴィル島ノ中央密林中」との打電を撃ち、メルヴィル島のスネーク湾に不時着した〔。本国からは自爆・戦死と認定され〔#飛龍飛行機隊戦闘行動調書(2)p.36『一飛 豊島一(戦死)自爆』〕、一等水兵から三等飛行兵曹へと一階級特進〔週刊マミ自身 69年間沈黙を続けたカウラの元捕虜を訪ねて 豊島家の墓の写真。碑文より、死後特進となった事が分かる〕。 右目上の裂傷のみですんだ〔豊島は、すぐさまその場から離れ逃走を図ったが、24日現地のアボリジニに捕まり、豪軍工兵隊第23中隊のレスリー・パウウェル軍曹に引き渡された。捕虜番号はP.O.W.J.910-1〔Pacific Wrecks.com 豊島の捕虜識別写真。〕。 この零戦は連合国側にとって最初の鹵獲機であったが、機体の損傷が甚だしく、完全な機体を入手するには半年後のアクタン・ゼロを待たなければならなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊島一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|