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豊川稲荷東京別院 : ウィキペディア日本語版
豊川稲荷東京別院[とよかわいなりとうきょうべついん]

豊川稲荷東京別院(とよかわいなりとうきょうべついん)は、東京都港区元赤坂にある曹洞宗寺院である。豊川稲荷 妙厳寺愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。
== 沿革 ==
大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする〔武家屋敷の稲荷を由来とする稲荷神社は少なくない(ただし豊川稲荷は寺院)。同じく日本三大稲荷に数えられる、笠間稲荷東京別社(中央区日本橋浜町)も、笠間藩主・牧野家の屋敷稲荷が基となっている。〕。
大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといい、越前守の時に、江戸下屋敷に吒枳尼天を勧請して祀ったといわれる。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られた。
創建
江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していたという〔他の武家でも、「初午」などは屋敷稲荷を開放する所は多かった。〕。

その後、文政11年(1828年)、信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建とされる〔当時は、豊川は大岡家(西大平藩)の領地であった(後述)。〕。江戸参詣所が設けられたことにより、一般信徒も参拝が毎日できるようになり、今までの大岡邸の屋敷稲荷は「奥の院」とされた。
明治9年(1876年)、東京府は、私有地で祀られる社堂への、無許可での一般参拝を禁止する布達を出した。これにより東京参詣所も一般参拝ができなくなり、大岡邸の吒枳尼天の分霊は、豊川の妙厳寺本院へ還された。2年後、府から許可が下り、一般参拝が再開された。
明治20年(1887年)、大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、現在地(元赤坂一丁目)に移転した〔『日本歴史地名大系』では「明治20年(1887)赤坂小学校敷地となったため青山通り北側の現在地に移転」とあるが、大岡邸が隣の赤坂小学校の敷地になるのは、大正になってからである。東京別院の移転は小学校とは関係はない。〕。
信仰
大岡越前守は、江戸南町奉行としての活躍や、旗本から大名へ取り立てられたことでも知られる。それにあやかり江戸の豊川稲荷も、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となる。川柳にも「石川は 盗み 豊川 盗ませず」と詠まれた〔石川とは、むろん石川五右衛門のことである。〕。
また明治以降の赤坂は、料亭や芸者などが集まる花柳界が発展し、芸道を生業とする人々からの信仰も増えた。

現在も、ジャニーズ事務所所属タレントをはじめ、著名な芸能人、スポーツ関係者からの信仰を集めていることでも知られ、2月の「節分会」には各界有名人も多数参加する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「豊川稲荷東京別院」の詳細全文を読む



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